韓国文学の現況を紹介する「2011年韓国文学翻訳院東京フォーラム」がこのほど、東京・韓国文化院で開催された。その中から作家・鄭泳文の報告「私の作品世界」を要約・紹介する。
私は、ヨーロッパの前衛的な作品で知られるフランツ・カフカやサミュエル・ベケット、アメリカの実験的小説家リチャード・ブローディガン、そして韓国の前衛的な詩人・李箱や金洙暎などの作品を読み、その後に小説を書き始めた。なかでも、ベケットや李箱から強い影響を受けたが、ここで私が言うベケットは、大衆的に広く知られている戯曲『ゴドーを待ちながら』よりも、彼の本領といってもよい『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』などの小説を書いたベケットのことである。
彼はこの三部作を通じて、小説言語として表現可能な究極の地点まで到達したと思う。一方、その作品が日本語にも翻訳されている詩人であり小説家の李箱は、私が個人的にもっとも好きな韓国の作家である。日韓併合のあった1910年に生まれ、37年に27歳という若さでこの世を去った彼は、当時日本を経由して紹介された西欧の前衛文学を積極的に受け入れ、彼ならではのスタイルで類例のない文学世界を創り上げた。
李箱は、当時の韓国文学にはまだ実験的文学というものが事実上は存在せず、また、時代的にもあらゆるものごとが切迫していた状況で、韓国文学における新たな地平を開いたといってもよいだろう。
私は、文学のもっとも本質的な次元である言語を通じて新しい文学の可能性を探求することに関心を持ってきた。私にとって文学は、言語と観念の未知の領域を探し出すことだったのだ。私の小説におけるもっとも大きな特徴は、いわゆる既存の小説スタイルにあるべき構成要素がまったくなかったり、あるいは必要最小限であること、また、小説の背景になる具体的な事件や場所がはっきりせず基本的な叙事構造が存在しないこと、あらすじも曖昧であるという点だ。私の小説では外的事件は重要ではなく、それらは最小限の範囲でしか起こらない。また、中には人物の内面で起こること、つまり観念が小説のほぼ大部分を占めている作品もある。
私の小説には、単語と文章の繰り返しや変奏が頻繁に登場するが、それが話の存在そのものを遮ったり、意味が生まれることを阻んだりしている。反復が繰り返され、後に出てくる発話が前に出てきた発話を否定したり、また別の脈絡でもって繰り返されたり、事実上消されてしまったりといった方式でさまざまな話が語られるわけだが、結局それは何の意味も生み出さない。そのため、読者からは、小説を読み終わった後も何の話を読んだのかさっぱりわからない、といった反応が寄せられることがある。私の小説は見方によっては、語ることのできないことを、あるいは語りにくいことを最後まで語ろうとするアイロニーを表現しているともいえる。
◆人間心理の体質描く作家◆
1965年生まれの鄭泳文は97年に『辛うじて存在する人間』を発表し、作家としてデビューした。人間心理の本質に関わる問題に注目してきた作家であり、そうした点では、韓国文学における許允碩から、李仁星、崔秀哲に続く一種の実験的な心理小説の系譜を引き継いでいる。
デビュー作『辛うじて存在する人間』は、これといってはっきりした理由もないまま教師の仕事を辞めた主人公が、母親の金を頼りに暮らし、ごくありきたりの風景を観察しながら周囲の人々と無意味な対話を交わしていくという「辛うじて存在する人間」に関する小説である。極度の倦怠に陥り、死んだも同然の日々をどうにかやり過ごしていた主人公は、結局、はっきりとした理由もないまま一人の男を惨殺するという不条理な結末に至る。
叙事の起承転結をあえて拒否するけだるい言語遊戯、ベケット式不条理劇を思わせる構造、匿名の存在の登場など、デビュー作に見られるこうした傾向は、現在の鄭泳文の作品においてもなお変わらぬ支配力を持っており、作家の重要な関心事といえる。
鄭泳文の小説の特徴を一言で定義することは難しい。彼の小説では叙述者が絶えず考え、つぶやき、そうしながらも誰かと対話を交わしたり、ふらふらとうろついてもいるのだが、そうした変化につきもののまたもう一つの何か、つまり、叙事的な意味はそこにはない。したがって、彼の小説の中の登場人物はもちろん、読者はこう問いかけるほかない。「いったい今、何の話をしていて、何の話をしようとしているのか?」この問いこそが、鄭泳文小説の始まりであり終わりなのである。