朝鮮考古学研究に生涯をささげた有光教一さんを追悼する「朝鮮考古学のパイオニア 有光教一展―我が心のふるさとに捧ぐ」が、京都市の高麗美術館で開催中だ。同展の意義について、李須恵・高麗美術館研究員に文章を寄せてもらった。
有光教一(1907~2011)先生は89年より22年間、当館研究所所長を務められた。高麗美術館創設者の鄭詔文(1918~89)が兄の貴文と発行した『日本のなかの朝鮮文化』第14号(72)に、有光先生が高松塚古墳について寄稿されたことがきっかけであった。有光先生は、88年の開館直後、すべての蔵書と資料を財団に寄贈された。その中には、戦前に有光先生が在籍された朝鮮総督府博物館や朝鮮古蹟研究会の発掘報告書を含む稀覯本がある。これらは有光先生にとって特に思い入れがあるもので、学術書としてだけではなく「心のふるさと」の想い出が凝縮されている。
有光先生が朝鮮へ渡ったのは31年である。朝鮮総督府古蹟調査事業によって既に楽浪や平壌、慶州、扶余等で多くの遺跡遺物の存在が明らかとなっていた。特に慶州は金冠塚や飾履塚、瑞鳳塚等の大規模な発掘により絢爛豪華な遺物が次々に発見され、人々の耳目を集めていた。有光先生は京都大学文学部副手嘱託をしていた24歳の時、朝鮮古蹟研究会助手として慶州に赴くことになる。
有光先生が最初に行った発掘調査は慶州邑南古墳群の皇南里第82・83号墳であった。また南山仏蹟調査、忠孝里丘陵の石室古墳や皇吾里第16号墳等、数々の調査に従事した。有光先生が携わった遺跡は、韓国考古学を目指す者にとって重要な道しるべとなっている。
解放後、米軍政庁は、既に引揚列車の予約をした有光先生に残留を命じた。総督府博物館を引き継ぐ国立博物館発足のため、また韓国人による考古学的発掘調査の訓練のためというのが理由である。京城の情勢不安に加え、四人の子供を抱えた病身の妻の安否が分からない状況であったが、米軍政庁下ではただ命令に従うよりほかなかった。
有光先生が金載元博士(1909~90)と出会ったのは1945年8月17日であった。博物館収蔵品接収の任務を負った金博士は、ドイツで考古学と美術史を学び、後に祖国の文化財を守り、世界に広めることに尽力した人物である。金博士と有光先生は収蔵品の引渡しや動乱中に有光先生率いる総督府博物館員が地方へ疎開させた文化財の回収に徹し、韓国初の国立博物館誕生に向けて奔走した。そして12月、旧総督府庁舎を利用した韓国初の国立博物館が開館した。有光先生は、韓国人が運営する博物館の晴れの日に日本人が顔を出すべきではないと、式典には出席しなかった。
翌年5月の慶州路西里第140号墳は解放後初の調査であり、初めて韓国人の手で行われる歴史的な発掘であった。実施にあたっては米軍政庁とGHQの意見相違、また有光先生が実質指導者となることに対する反論もあった。その頃、有光先生の元には妻が肺を患い入院しているとの情報が入り、まさに断腸の思いであったが、金載元館長らとともに慶州へと向かうことになる。そして5月3日、発掘が始まった。
十日が過ぎた頃、同古墳から「乙卯年」「好太王壺杅」の銘文をもつ銅椀が発見され、高句麗415年以降に製作されたことが明らかとなり、まさに歴史的な大発見となった。同古墳は壺杅塚と名付けられた。壺杅塚、そして隣接する銀鈴塚が発掘調査地として選定されたのは有光先生の推薦による。
有光先生はこの発掘について次のように述べている。「朝鮮考古学史上、画期的なこの発掘に調査員として参加できたことを誇りに思うが、私自身の未熟なため碌な指導ができなかったことに忸怩たるものがある。また、報告書作りに必要な作業を放り出して退去せざるをえなかったことは、考古学徒として不本意であり心残りであった。しかし発掘の実地指導が終われば、日本人である私には朝鮮に留まる理由がなくなったのである」。46年5月末、有光先生は15年を過ごした朝鮮に別れを告げた。
激動の時代に生き、生涯を朝鮮考古学に捧げた有光先生は終世、柔和にして穏やかな、孤高の人であった。
■有光教一展■
日程:開催中(6月3日まで)
場所:高麗美術館(京都市)
料金:一般500円、大高生400円
電話:075・491・1192
HP:http://www.koryomuseum.or.jp/