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2012/11/30

<韓国文化>余白の美、静寂の詩とは

  • 余白の美、静寂の詩とは①

    リ・ウファン 1936年韓国慶尚南道生まれ。日本を拠点に世界的に活躍する美術家。日本の現代美術の「もの派」を理論的に主導したことで知られる。昨年米グッゲンハイム美術館で個展開催。

  • 余白の美、静寂の詩とは②

                   李 禹煥さんの作品「点から」

  • 余白の美、静寂の詩とは③

                   2012年の新作「対話」

 在日一世の画家、李禹煥さんの作品展が韓国光州市の光州市立美術館で開かれている(12月9日まで)。同展について、金姫娘・同館学術研究士の文章を紹介する。

◆静かな緊張感と奇妙な余韻 金 姫娘(キム・ヒラン、光州市立美術館学術研究士)

 1960年代中盤以降、高度経済成長と庶民生活の安定を成し遂げた。その一方で、日本の芸術界は急速な産業化と西欧化に対する懐疑と批判意識の中、前衛的で多様な活動が花開いていた。当時、李禹煥は大学を卒業後、無名の画家として自分の芸術観に関する執筆活動を行いながら、日本の現代美術の変革を眺めていた。

 1968年、東京国立近代美術館で韓日美術交流展「韓国現代絵画展」が開かれ、李禹煥は彩度と明度の異なるピンクの絵の具をエアブラシで吹いて制作した、300号の大作3点を出品した。彼の作品は当時展示に参加した朴栖甫(パク・ソボ)にも強い衝撃と印象を与え、それ以後、李禹煥は1960年代の韓国美術界の展開過程で「変数」であると同時に「動因」となった。そしてその年の秋、第1回現代彫刻展に出品された関根伸夫の作品〈位相―大地〉を見て、1969年に関根伸夫論を発表して美術界の注目を集めることとなる。

 1960年代末、「もの派」が起き、李禹煥はその中心に立った。一般的な美術運動グループとは違い共同活動は行わなかったが、共通した時代への批判意識と類似の芸術観を持った彼らは、後に「もの派」という名前で日本現代美術を代表することになる。

 「もの派は、ありのままをありのままに行うこと、身体を介在させて、そこにある事物と事物、事物と場とを捉えなおすこと、すなわち事物や場をできるだけ、イメージで歪ませたり内面化したりしないで、それを生かす方向で動かしたり組んだりして、知覚の状態を作り上げることを表現の方法とする」。もの派についての李禹煥の所見を見ると、今も変わらず追い求めている李禹煥自身の芸術観と一致していることが分かる。

 李禹煥は1956年、ソウル大学校美術学科に入学する。同年、日本に渡り日本大学で哲学を専攻するが、結局また美術へ転向して日本で作家活動を始める。「自家撞着の美学」には無名時代、日本内の他者として自己の存在論的アイデンティティーと芸術家としてのアイデンティティー、そして指向との間で感じた混沌と自分なりの自らの信念が語られている。

 1970年代から日本、韓国、ヨーロッパを行き来して活動している李禹煥は、自らの存在について「まるでピンポン球のように応酬される中間者として追い立てられ、どちらからも内部人として認められない」と言う。彼の作品テーマが初期から今まで、出会いと関係を語るものであるのはもしかしたらとても自然なことなのかもしれない。

 その中には日本とヨーロッパを転々とし、慣れない環境との出会いから来る緊張と不安、そして新しい世界との出会いと世界観の拡張など幾多の体験が溶け込んでいる。彼にとって「出会いと関係」の問題は切実で熾烈な問題だったであろう。

 李禹煥は1970年代から「点から」、「線から」などのシリーズで、反復して点を打ったり、線を引いたりすることで、同一性と差異性を通して循環と無限の概念を現してきた。70年代のシリーズに見られる反復行為は、一種の修行のようにも感じられ、微細な差を伴う節制の美が際だっている。

 一方、80年代の「風」シリーズは自由で即興的な筆勢が画面に溢れており、余裕と自由が感じられる。李禹煥は、余白の響きを与える画面のコンポジション(構図)を決めるまで、あちらこちらを何十回も測って点の位置を決める。一つの点を打つまでに4、5回の筆づかいが要求されるが、一回の塗りが乾くまでに一週間ほどかかるので、点一つが完成するまでに、40日余りの時間が必要になる。緻密な計算と訓練された技術、集積された労働力が見せる彼の作品は、高度の集中力とエネルギーが凝縮されており、節制されており、節制された行為が同時に要求される。

 李禹煥は、身体というのは自分の物であると同時に、外界と繋がれた両義的なものであり、思想やアイデアとともに表現において必要不可欠の存在であると認識している。「意識と身体は相互に協働することはあっても等しいものではない。むしろ意識よりずっと大きい世界に関わっているのが身体だ。身体は外界の一部でもある。だから身体の存在やその役割を生かすことによって、人間は外界を知り、超越を体験することができるようになる。私が身体にこだわる理由はこの点である」と李禹煥は言う。

 長い歳月の自然の香りと痕跡を含んだ石粉を交ぜ、グラデーションにより引き出された点は、深みのある節制を現す。どのような叫びや言い訳や修辞より、静寂こそ時空間的な深みを発し、自身を省察させる余韻を残す。静けさを抱いた李禹煥の余白は静寂の詩である。