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2013/02/22

<韓国文化>朝鮮絵画の美に触れる

  • 朝鮮絵画の美に触れる①

    「丁丑入学図帖から」純祖王(1800~1834年)の長男・孝明子が9歳になって、待講院に入学したときの記録 韓国・慶南大学校蔵

  • 朝鮮絵画の美に触れる②

         金明国が日本で描いた絵「紙本墨画 金義信(写字官)賛」
         日本・大和文華館蔵

  • 朝鮮絵画の美に触れる③

    李聖麟が描いたと伝えられる「清見寺 槎路勝区画集(2巻30図)紙本著彩」 韓国・国立中央博物館蔵『大系朝鮮通信使』から

 「朝鮮通信使随行画員展 画員たちはどんな絵を書き残したか」が、東京・新宿の高麗博物館で開かれている。朝鮮通信使に随行した朝鮮王室の画員が日本で描いた絵など、韓日に点在する作品約100点を写真パネルで紹介する貴重な展示会だ。

 江戸時代、朝鮮王朝と日本は「国書」の交換を通じて対等な国交を行っていた。朝鮮通信使は両国を結ぶ「信(よしみ)を通わす」使節だった。朝鮮王朝の首都漢城(ハンソン)から江戸へ往復7か月から1年に及ぶ通信使の往来は、両国の善隣友好関係を象徴する一大セレモニーであった。

 1607年、第1回朝鮮使節団が来日した。第3回までは「回答兼刷還使」と位置付け、秀吉軍によって捕らえられた捕虜の帰還や日本の政情探索が目的だった。名実ともに「通信使」という名称になるのは、第4回(1636年)からである。最後に来日した1811年までの12回、使節団は各回とも、350人から500人近くになった。画員を含む、朝鮮選りすぐりの文化人を日本の人々は待ちわび、往来した各地で民衆とも交流した。いまそこに、多くのゆかりのものが残されている。

 画員は宮中の図画署という組織に属し、国家事業の記録を絵画で残す仕事をした。韓国への返還で話題になった「朝鮮王室儀軌」や御真と呼ばれる歴代王の肖像画を描く任務が課せられた。その他御陵図・郡邑や兵営地図・官用屏風・服飾デザインも画員の仕事である。画員には創意・個性よりも物の形状を正確に写し取る手技が要求された。

 儒教を国是とする朝鮮時代の画員は国家試験(科挙の雑科)で選ばれる官吏であるが、身分は最下位の品階に定められた。職工待遇で、陶工・漆工・その他の工芸技術者と同様に一介の工匠とみなされた。それゆえ、有名な専門画工であっても生没年など経歴が明らかでない場合がある。朝鮮時代中期に至ると画工という職業は、身分とともに親子や親族で継承する例が多く見られる。

 画員の任務画員は正使・副使・従事官を始め、書記・訳官・写字官などと並んで、通信使の一職務として1名ないし2名が任命された。彼らは宮中の専門画工の中から選ばれた当時一流の画工である。

 随行画員の任務は、①対馬から江戸までの道中、町や港の有様を絵や図で記録すること、②日本人の揮毫の依頼に応じて絵画を描くなど、友好関係を増進することであった。

 1607年から1811年まで、約200年間に12回13人の画員が同行し、宿泊先の寺院などには絵画や扁額が残されている。

 朝鮮絵画は当時の日本で高い関心と評価を得ており、日本の文人画に大きな影響を与えた。異国の絵師同士が直接会い、語り、絵を交換し、書簡を交えたエピソードなど、生き生きとした記録が残されている。

 金明国(1600~1662年以後)は朝鮮時代中期の代表的な画家で、鳴國・命國とも称した。字は天汝、号は蓮潭、酔翁。図画署の画員、教授を歴任した。浙派の影響を受け、奔放自在、鋭い速筆な筆致で山水画における当時の画壇に新風を吹き込んだ。気性が豪放磊落(らいらく)、諧謔(かいぎゃく)をよくし、大酒飲みで、酔えば画興のままに筆を執り描いたとされる。

 金明国は、来日画員のうちただ一人、4回目・5回目と2度江戸まで来ており、日本では最も有名で、達磨図・寿老図・神仙図をはじめとして山水図・探梅図・布袋図・鷺図などを描き、最も多くの作品を遺している。

 李聖麟(1718~77)は全州(チョンジュ)出身。李潤民(イ・ユンミン)、李亨禄(イ・ヒョンノク)を輩出した李彦謙(イ・オンギョム)の全州李氏の家系。字は徳厚(トクフ)、蘇斎(ソジェ)と号す。山水・人物を得意とし、寛延元年(1748)の通信使に画員として来日した。本国においては残された作品が少なく、あまり知られていない。しかし、日本で描いたと思われる作品は、いずれも李聖麟が朝鮮後期の優れた画家であることを示している。


■朝鮮通信使随行画員展■
日程:開催中(4月28日)
場所:高麗博物館(東京・新宿)
料金:一般400円、中高生200円
電話:03・5272・3510