特別展「朝鮮通信使と京都『誠心の交わりへの道―松雲大師と雨森芳洲』」が、高麗美術館(京都市右京区)で開催中だ。朝鮮通信使が京都文化に与えた影響を知る貴重な展示会だ。片山真理子・同館研究員に文章を寄せてもらった。
◆京都の文人と交流重ねる 片山真理子(高麗美術館研究所研究員)◆
豊臣秀吉が朝鮮に攻め入った、いわゆる壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の後、両国関係の修復が軌道に乗ったのは、1604年(慶長九年)に「探賊使」という名目で京都に入った松雲大師が(本法寺に宿泊)、翌年の3月、徳川家康と伏見城で会見したおりからである。
1607年(慶長12年)から1811年(文化8年)に12回におよぶ朝鮮通信使の具体化の前提が、京都ではじまったことを知る人は意外に少ないかもしれない。
朝鮮通信使は、選抜された高度な文化的素養を身に付けた人々からなる使節団だった。300~500人からなった一行は首都漢城(ソウル)を出発し、釜山から対馬、赤間関から瀬戸内海を通って大坂へ。
つづきは本紙へ