◆虐殺事件告発映画、各国で製作◆
最近、書名に惹かれて手にした書物に、B・シリュルニク『憎むのでもなく、許すのでもなく』(吉田書店)がある。著者は六歳のときにユダヤ人一斉検挙により逮捕され、両親はアウシュビッツで「煙滅」するが、本人は脱走して生き延び、苦学のすえ精神科医となる。過去の体験を語る自己を分析して彼は、自分がトラウマから脱出するために、無意識のうちに思い出に手を加えて修正し、一貫性のある物語を語っていることに気づく。つまり、物語にした真実は、決して史実ではなく、それは、本人が生き続けられるように修正されたものなのだ。現実が常軌を逸しているとき、現実に一貫性をもたせるためには、自分の記憶とともに現実を修正する必要があるからだ。個人も集団も、修正された体験、すなわち物語(神話)なしに生きてはいけない。
著者が復元された過去の記憶を語る契機となったのは、多数のユダヤ人をドイツ当局に引き渡したフランスの政治家、モーリス・パポンの裁判(1998年に有罪判決)だった。著者にとってもっとも危険な人間と映ったのは、疑問を発することなく命令に従う「普通の人々」である。彼は単に従うために他人を殺すことができた一部の人々の、「恐ろしいほどの従順さ」に驚く。なお、日本人には人気のある『私は貝になりたい』(橋本忍脚本)も、同様の人物を主人公とする。
そして著者は、つぎのような結論に達する。「憎むのは、過去の囚人であり続けることだ。憎しみから抜け出すためには、許すよりも理解するほうがよいのではないか」。 類似した視点は、すでにV・E・フランクル『夜と霧』(新版、みすず書房)においても示唆されている。アイヒマン裁判に関しては、H・アーレントによる『アイヒマン論争』(みすず書房)ほかの強力な主張がある。アイヒマンを処刑することの無意味さと、ユダヤ人のなかにもいた対独協力者問題をとりあげたアーレントに対する、ユダヤ人社会の猛烈な反発を描く映画『ハンナ・アーレント』(2012)も、同様の問題提起といってよい。
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