1900年代初め、日本の外交官として両国の共益に尽くした若山兎三郎がいる。どのような人物であったのか、永野慎一郎・大東文化大学名誉教授の「明治期外交官・若松兎三郎と韓国:共生のための苦悩」を今号から連載する。
◆熱心なキリスト教信者として人道主義に基づく「共生」追求◆
韓国が日本の植民地支配から解放されて70年、日韓国交正常化から50年の節目の年である。歴史を振り返り、過ちを繰り返すことなく、両国民が共有できる未来志向の関係構築が重要である。
そのためには、歴史を直視し、認め合い、赦し合い、協力し合うことが大事である。価値観を共にする両国は協力して「共生への道」を切り開くべきである。
植民地時代に民族を超えて良心に基づいて働き共生のために苦悩した日本人が多数いる。
韓国の伝統美術や工芸品に関心をもち、京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を設立し、李朝時代の象徴である光化門の撤去に反対した思想家の柳宗悦、韓国の山や民芸を愛し、森林禄化に尽力した朝鮮総督府官吏の浅川巧、韓国人伝道師と結婚し、夫の行方不明後、戦争孤児3000人を養育した総督府官吏の一人娘、田内千鶴子などがいる。
一世代先の大韓帝国時代に外交官として活躍し日韓の共益のために奮闘した若松兎三郎がいる。1902年7月、大韓帝国政府主権下で植民地支配が本格化する前に外交官として赴任した若松は、国際慣例にのっとり、現地当局とも接し、人道主義に基づく共生への道を追求した。
若松兎三郎は同志社普通学校で新島襄から「自由」「良心」「人類愛」などを学び、国際色豊かな教師や宣教師との交流を通じて多様な文化や価値観を理解し、キリスト教の信仰を深めた。
若松の学費や生活費、結婚費用に至るまですべて京都政財界の巨頭、田中源太郎が出してくれた。若松は神様が施してくれた恩恵と信じ、「地の塩」「世の光」になろうと決心した。
東大法学部に進学した若松は在学中に外交官試験に合格した。ニューヨークや中国の勤務を通じ、世界は広く、異なる文化や言語が存在し、多様性を認め合う風土を肌で感じた。
若松は外交官の任務は相手国の事情を理解し、利害関係を調整することであると考えた。
鎖国政策が長引き、産業発展が後れていた韓国は天然資源が豊富である。日本の技術および資金の支援で産業を開発すれば、共に利益が得られるのではないか。そこに目をつけた。
若松が木浦領事着任から着手した産業開発が二つある。一つは、棉作の改良である。世界の主要棉種陸地棉を自費で試験栽培した。日本では気候上栽培できない陸地棉を韓国で栽培し韓国の産業発展に役立つと共に日本の紡績業界への原棉供給に寄与できれば、一挙両得の策である。
外務省始め関係官庁や政界および産業界有志に要請し、棉花栽培奨励事業を実現させた。韓国陸地棉栽培の元祖である。結果、陸地棉が全国に普及し棉業が栄え、衣服文化の変化をもたらした。木浦高下島に「朝鮮陸地棉発祥之地」の記念碑がある。
もう一つは、当時韓国は食塩が不足し、日本や中国から輸入した。若松は財政負担軽減のため天日製塩試験場設置を建議し専門技師の派遣と助成金を要望した。それが契機となり、京畿道朱安に最初の天日塩試験場ができた。天日製塩の始まりである。
統監府設置後、韓国の産業開発に熱心であったことから残留して欲しいという要請を受け、外務省復帰を断念して木浦・元山・平壌理事官を歴任した。釜山府尹時代、地方制度改正をめぐって寺内総督との意見対立があり、釜山府尹を最後に退官した。仁川米豆取引所社長を務めるなど、25年間、韓国で良心に基づき共生のために苦悩した生涯であった。
京都に帰ってからは母校同志社校友会長や同志社大学常務理事などを務める一方、戦時中、在日韓国人たちの人権擁護に努めるなど「地の塩」にならんとした。
明治期に韓国で活躍した若松兎三郎の活動内容を遺族に残した『自己を語る』を基に当時の外交記録などを丹念に精査し紹介する。