特別展「古代出雲とヤマト王権―神話の国の考古学―」が、大阪府立近つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡)で開かれている。ヤマト王権・出雲と朝鮮半島との古代交流を中心に、廣瀬時習・同館総括学芸員に文章を寄せてもらった。
◆古代国家統合の歴史とは 廣瀬 時習(大阪府立近つ飛鳥博物館学芸課総括学芸員)◆
出雲は、『古事記』『日本書紀』における「出雲系神話」、『出雲国風土記』、出雲大社など、日本古代史を考えるうえで重要な地域だ。この30年、出雲では弥生時代の荒神谷遺跡の銅剣・銅矛・銅鐸の大量埋納、加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の発見など重要な歴史的発見が脚光を浴びた。ほかにも、未盗掘の古墳から充実した考古資料が発掘され注目されてきた。まさに古代史の宝庫である。
なぜ、「神話の国」と言われるのか。出雲は「出雲王国」とも評され、書物等にもこうした表題が喧伝されている。『出雲国風土記』に描かれた「国引き神話」は、朝鮮半島をも視野に入れた環日本海の壮大なスケールである。オオクニヌシ神が「葦原中国」を「高天原」に譲るという「国譲り神話」は、「出雲王国」の禅譲というロマンを秘めた神話として人々の注目を集めてきた。多くの読者が、この神話の背後にヤマト王権と出雲の抗争の歴史を思い浮かべるのではないだろうか。しかし、一方で記紀の建国神話には、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文のような征服史の面影がないといわれる。
『日本書紀』の崇神紀60年には、崇神天皇による出雲大神の神宝の献上をめぐる出雲振根の殺害伝承が記されている。出雲国造による天皇への出雲国造神賀詞の奏上は、天皇礼賛にはじまり、祖先神の偉業と国造の歴史、国譲り物語を奉るものである。この奏上は、地方支配者のヤマト王権に対する服属を儀礼化したと考えられている。出雲の歴史的な位置付けは、ヤマト王権によって神話的世界観が創造される過程で儀礼的・宗教的な側面から演出されたという考え方もある。
6・7世紀の出雲では、東部と西部の両地域に西日本でも屈指の規模を誇る首長墓が継続して営まれる。出雲東部では、前方後方墳や石棺式石室、出雲型子持壺など強烈な個性が光る考古資料が充実している。
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