ここから本文です

2015/10/30

<韓国文化>済州の海女の〝生〟に学ぶ

  • 済州の海女の〝生〟に学ぶ

    伊地知紀子・大阪市立大学教授㊨と韓国の海女

 海女の社会・文化・歴史に関する共同研究を行ってきた伊地知紀子・大阪市立大学教授が、「日韓の海女―暮らしと生業(写真展+シンポジウム+講演)」(韓昌祐・哲文化財団の研究助成事業)を、30日から関西地域で開催する。伊地知教授に同研究について寄稿をお願いした。

◆環境変化の中、何を保存すべきか熟考を 伊地知 紀子(大阪市立大学教授)◆

 1994年夏、私は韓国済州道北済州郡(現済州市)旧左邑杏源里に住み始めました。理由は、済州での村の生活を学びたいからでした。これについては、大学院の頃に話がさかのぼります。

 大学院入学後、私は在日コリアンの生活史を聞きたいと考えていました。この頃、在日コリアンについての文献は数少なく、差別と闘う勇ましい姿か、ただ苦しむ姿は記述されていましたが、日々の暮らしのありようや等身大の姿は描かれていません。そこで、直接お会いしようと生野区にある識字学級「オモニハッキョ」に通うようになりました。

 生徒さんの平均年齢は70歳前後で、そのくらいの年齢になって初めて鉛筆を持つ方が少なくありませんでした。こうして出会った一世の女性たちはほとんどが済州出身でした。生活史を伺うなかで、済州島の風景や暮らしは現前するかのように語られました。みなさん、今も済州島に暮らす家族や親戚のことを昨日会ったかのように様々なエピソードとともに語り、日本で亡くなった夫の名義である済州島の畑のことが気がかりなのだとこぼしておられました。

 済州島の風の強さや海の様子、土の具合はどんな感じなのだろう、私は行くことにしたのです。

 出会った方々の縁で、とりあえず済州大学校に所属を確保し、受け入れの先生の紹介で杏源里をフィールドとして村の生活を教えてもらうことにしたのです。家を無料で貸してくださったのが、安基男さん・朴天烈さん夫妻(共に1931年生)でした。このお二人、そして長男である晟珍さん夫妻や洞内のサムチュン(済州では村の人みんなをこう呼びます)たちについて、ニンニク、大豆、大根、パンプン(痛風に効くらしい)、西洋人参畑へ行き、不慣れな手つきで収穫して小遣い稼ぎもさせてもらいました。そうしてついに村の海に入れてもらえることになりました。海ではヒジキ、テングサ、フノリ、ウニ、サザエ、アワビ、トコブシ、タコ、アメフラシなどを採集します。

 杏源里では、ヒジキは村の共同採集作業であるため各戸の参加義務があり、テングサは漁村契(村ごとの漁業組織)加入者の共同作業です。私は朴天烈さんの長男の妻代理ということでテングサ採りから始めました。初体験でしたが、浅瀬でも十分採集できるので素人でもかなりの量になり、あるルートで売ってもらって10万ウォンの小遣いを得ました。この「手柄」によって、サムチュンたちから「大したもんだ」という評価をいただきました。

 次は海中に潜るという段階です。私が海に入るという情報はあっという間に近所に伝わり、女サムチュンたちはあちこちから必需品を集めてくれ、全身の装備が整えられたのでした。


つづきは本紙へ