在日コリアンの近現代史をドキュメンタリー映画に記録し続けた在日2世の呉徳洙(オ・ドクス)監督が、昨年12月に亡くなった。生前、呉監督と交流を重ねてきた門間貴志・明治学院大学准教授に追悼文を寄せてもらった。
◆映画作りに覚悟の深さ見せた 門間 貴志(明治学院大学准教授)◆
ドキュメンタリー映画監督の呉徳洙氏が昨年12月13日に亡くなられた。享年74歳であった。
1941年、秋田県鹿角市で在日韓国人二世として生まれた呉監督は、早稲田大学で演劇を学び、卒業後に映画界入りした。
大島渚監督の『白昼の通り魔』『日本春歌考』に助監督として参加した後、東映東京制作所に入所、テレビドラマ『柔道一直線』『刑事くん』『ジャイアントロボ』『キイハンター』『プレイガール』などの制作にたずさわった。
1979年に労働組合闘争をきっかけに東映を退社すると、自身のプロダクションOH企画を設立し、以後ドキュメンタリー映画の製作を行ってきた。また在日の仲間たちと季刊誌「ちゃんそり(小言)」を発行している。
ドキュメンタリー監督としての呉徳洙の名を知らしめたのは、在日外国人に対する差別と管理の象徴である指紋押捺制度に対する運動を描いた映画『指紋押捺拒否』(1984)であった。
映画の冒頭、外国人登録証に火がつけられる映像が印象的だったが、それが呉監督自身のものだと後から知らされ、その覚悟の深さに驚かされた。
『指紋押捺拒否』以降、呉監督は在日の歴史を多面的に捉えていく膨大な作業に着手し、掘り起こした古い記録映像を丹念に検証、長編ドキュメンタリー映画『戦後在日五〇年史 在日』(1997)として結実した。
これは在日の歴史のみならず、戦後日本史を俯瞰する重要な作品として高く評価されている。
初めて呉監督に出会ったのは、90年代の終わり頃である。それまで面識のなかった呉監督から連絡をいただき、事務所近くの珈琲屋で初対面とあいなった。
これまで東アジア映画の研究を続けてきた私は、日本映画における民族表象、具体的には在日、華僑、沖縄、アイヌなどのステレオタイプについても調査してきた。もちろん呉監督の作品にも注目していた。
つづきは本紙へ