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2017/02/17

<韓国文化>1920年代、慶州発掘調査の写真公開

  • 1920年代、慶州発掘調査の写真公開

    能勢丑三が慶州の遠源寺で1930年代に発掘した金剛力士像の上半身㊨

 慶尚北道慶州市九黄洞皇福寺の三層石塔(国宝第37号)周辺にある十二支像(12干支の動物を形象化した像)の発掘過程を撮影した写真が公開された。これは、1920~30年代に日本人の建築・考古学者である能勢丑三(1889~1954)が皇福寺、憲徳王陵、遠源寺など慶州一帯を発掘・調査しながら撮ったものだ。

 慶州学研究院は能勢丑三により撮影された写真および図面700余枚を発見して公開した。これらの写真は奈良市の文化財専門写真会社である飛鳥苑に硝子乾板の状態で整理されないまま保管されていた。

 同研究院は慶尚北道と社団法人「韓国文化財探し運動本部」の後援を受け、昨年11月に能勢丑三の写真の全面調査および国内紹介のための契約を締結した。

 同12月に飛鳥苑を訪問し、硝子乾板フィルムを撮影した。能勢丑三が残した写真3700余枚が公開されるのは初めてのこと。慶州の十二支像など韓国関連の写真が700余枚、残りは日本と中国の文化財写真だ。

 1926年、能勢丑三は瑞鳳塚(ソボンチョン)発掘現場に向かうスウェーデン皇太子グスタフ・アドルフの随行団の一員として初めて慶州を訪れた。当時の能勢丑三は京都帝国大学・工学部の建築学の助手であり、この短期間の慶州訪問が人生を変える契機となった。

 慶州、特に十二支像に魅せられた能勢丑三は以後10余回にわたり慶州の遺跡を巡り、私費で発掘と復元も実施した。

 同僚の学者であり、古代学協会の角田文衛理事長は能勢丑三について、「情熱的に朝鮮の考古学と日本の石造工芸史、絵画史を研究した。新羅の文化財を見るととても感激するので、慶州での愛称が『感激先生』だった」と述べている。

 能勢丑三が撮ったのは、主に十二支像だ。十二支像の発掘前、調査過程、調査後の様子が映っている。皇福寺は慶州・狼山の東側にあった新羅王室の寺院だ。三層石塔とは、神文王の死後、息子の孝昭王が692年に父の冥福を祈るために建てた塔だ。通常、十二支像は墓の周囲などに建てられるという。

 李ハンサン・大田大学校教授は十二支像について「なぜ寺院の建物の基壇に十二支像を配置したのか疑問だ。王陵の十二支像を移した可能性、王の冥福を祈るための特別な儀礼空間とした可能性があるのでは」と話した。


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