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2019/01/11

<韓国文化>済州島の歴史と文化を知る

  • 済州島の歴史と文化を知る

    漢拏山とチョランマル(済州馬) 撮影:余田幸夫

 在日コリアン社会と深いつながりのある済州島の歴史と文化について理解できる「済州島を知るための55章」(梁聖宗、金良淑、伊地知紀子編著、明石書店)が出版された。編集者の1人で在日3世の金良淑(キム・ヤンスク)さんに話を聞いた。

◆在日のルーツを知る一助に 金 良淑(立教大学教育講師)◆

 ――出版の経緯は。

 本書は、明石書店から出ているエリア・スタディーズシリーズの166番目の本として2017年に企画された。済州島という島の歴史や文化に見られる非常に特殊な背景が、エリア・スタディーズとして掘り下げるだけの価値があると認められたためだと思う。

 ――済州島の一番の魅力は何だと思うか。

 火山噴火がもたらした山と海、玄武岩が織りなす壮麗な自然だと思う。溶岩の噴出によってもたらされた360を超える寄生火山や島中に張り巡らされた溶岩洞窟などは、ユネスコ世界自然遺産にも登録され、重要な観光資源になっている。そして、そのような自然のもたらした恵みと厳しい環境が育んだ狩猟、牧畜、農耕、漁撈、神話などの豊かな文化と、積極的に海の外へ出て行くたくましい人々の存在が、より一層済州島の魅力を引き立てている。朝鮮半島では元来済州島にしか海女が存在しなかった。海女は、共同体や信仰の中心的な担い手となり、海を越える出稼ぎによって本土や日本との間を縦横無尽に往来するなど、済州島らしさを最も体現している存在だと思う。

 ――済州島の歴史の特徴は何か。

 済州島は韓日中を結ぶ航路上に位置する。済州島に成立した古代国家・耽羅(タムナ)は、百済や新羅などの朝鮮半島部だけでなく、中国や日本とも積極的な交易や外交を展開していた。水はけのよい火山灰に覆われたため農業に適さないという土地柄、海産物の交易は必須であり、小国として大国とバランス良く付き合わなくてはならなかったのだろう。ところが、大国の狭間に位置していたことからその属国となり、辺境の防衛を担うことを求められるようになった。

 12世紀には高麗に組み込まれ、13世紀には100年に渡りモンゴルの直轄統治を受けた。朝鮮時代には本格的に中央の統治機構に組み込まれ、辺境の流刑地となるだけでなく、重い税負担に苦しむことになった。そのような歴史から本土(済州島の人々は「陸地」と呼ぶ)と島の抑圧-被抑圧関係が生じ、過酷な統治に対する民衆蜂起もたびたび起きている。

 植民地期には済州島と大阪の間に尼崎汽船や朝鮮郵船などの直航便が開設され、済州島民の移動は活発化した。この時期、多くの済州島民が労働者、あるいは留学生として日本へ渡った。1930年代には島民の4人に1人にあたる約5万人が日本にいた。そのため、大阪や東京では済州島出身者が在日朝鮮人の多数派になっている。これらの地域では出身村ごとの親睦会が結成されるほどだった。

 解放後の済州島では南北分断の葛藤が衝突し、1948年4月3日に4・3事件が起こる。米軍政下において軍警による過剰な武力鎮圧が行われ、多くの無辜の島民が殺された。長い間タブーとして語ることさえできなかった出来事だが、韓国の民主化とともに真相究明を求める声が大きくなり、2000年には済州4・3特別法が公布され、2003年には盧武鉉大統領が済州島を訪れて謝罪している。

 辺境の地として長く抑圧されてきた済州島だが、現在は高度な自治権を付与された特別自治道として「平和の島」を目指し、韓国屈指の観光地として発展している。


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