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2019/02/08

<韓国文化>国境を越えた愛と闘いを描く

  • 国境を越えた愛と闘いを描く

    権力に抗う男女を描いた『金子文子と朴烈』
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 1920年代の日本を舞台に、無政府主義者・朴烈(パク・ヨル)と日本人女性・金子文子の愛と闘いを描いた韓国映画『金子文子と朴烈』(李濬謚/イ・ジュニク監督)が、今月中旬から全国公開される。アジア映画研究者の門間貴志・明治学院大学文学部芸術学科教授に文章を寄せてもらった。

◆思想で結ばれ、同志として生きた二人 門間 貴志(明治学院大学文学部教授)◆

 在日の歴史資料の文献を読んでいた時、戦後すぐの1945年10月27日、長らく収監されていた朴烈が秋田の刑務所から出所したという記述に出会った。朴烈は秋田に地縁があったわけではないが、秋田出身の私にとっては印象的なことだったのでよく記憶に残っている。朴烈は翌年10月に民団の初代団長に就任した。解放直後から韓国映画には日本統治時代を主題とした作品は数多く撮られてきた。実在の人物をとり上げた作品も多く、安重根、金佐鎮、柳寛順、尹奉吉、金九らの姿が銀幕に登場した。

 しかし朴烈を描いた映画はなかったように思う。その理由は、獄中での転向、解放後に民団の指導者になった後の再転向などで、同胞の人気を失ったこと、そして朝鮮戦争時に北朝鮮に連行された後、容共に転じたことによるだろう。それがどこまで朴烈の実際を伝えているかは不明であるが。

 近年も日本統治時代を背景とした映画が流行している。『暗殺』『お嬢さん』『密偵』など、歴史を見つめながらも娯楽映画に昇華させた佳作もあるが、過剰な民族主義やリサーチ不足のため失敗した作品もあった。現在韓国で公開中の『マルモイ(原題)』は未見だが、日本統治時代に朝鮮語の辞書を編纂する人々を描いており、この時代を描く切り口の多様性を示している。日本統治時代を描く韓国映画に求められてきたのは、民族的なカタルシスでもあった。日本を批判的に描き、自らを道徳的高みに立つことで、恨(ハン)を晴らすものと言ってもいいかもしれない。

 しかし『金子文子と朴烈』は、民族と民族の対決という構図にはなっていない。もし対決が主題であれば、祖国解放後に刑務所を出た朴烈の姿を英雄的に描いたであろうことは想像に難くない。李濬謚監督の『金子文子と朴烈』もまたそうしたジャンルの映画だと漠然と予想していたが、それは見事に裏切られた。しかし同時に最近の韓国映画の動向を鑑みれば腑に落ちる主題なのである。

 この映画の主題のひとつは、権力とそれに抗う者たちの闘いである。大逆罪に問われたアナキストの朴烈と金子文子は法廷で闘う。その姿が実に清々しい。私は先ごろ日本でも公開された張駿桓監督の『1987 ある闘いの真実』との相似にすぐさま思い当たった。軍事政権の不正の隠蔽に抵抗する闘争というこの物語は、当時の日本政府の関東大震災における虐殺行為の隠蔽との闘いに重なる。もはやこれは抗日映画の構図ではなく、普遍的なものである。

 もうひとつの主題は、もちろん朴烈と金子文子の愛である。アナーキズムという思想で結ばれた二人は、国や制度や性別といった規範を越えた同志として生きた。金子文子は大正時代のまさに


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