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2007/12/08

<韓国経済>韓国進出日本企業インタビュー・競争から共創へ 第12回                                           ~大垣精工社長 上田 勝弘氏~

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    うえだ・かつひろ 1939年、滋賀県出身。1961年、立命館大学法学部卒。68年大垣精工設立。84年にセイコーハイテック設立。2001年社団法人日本金型工業会会長に就任。国立ソウル産業大学名誉教授。日韓経済協会理事。韓国に韓国城山など合弁3社、中国でも中城電器の設立に参加。趣味は囲碁。

 ――韓国と交流を始めたきっかけは。

 小学生のころ、在日の生徒が6人いて、そのうちの一人と非常に親しくなり、よく彼の家に遊びに行って、トック(韓国もち)をごちそうになったりした。家のつくりが日本と違っていて、興味を持ったのが韓国にふれた最初といえる。

 学校を終えて事業を興し、1979年に岐阜の金型組合主催の視察旅行で初めて韓国に行った。その時は、起亜産業の工場などを見学したが、夜の観光もあって、料理はうまいし、韓国はなんていい国なんだと思った。

 それがきっかけで、韓国に行きたいと思うようになり、社員旅行で行くことを考えたが、当時は海外旅行が経費として認められず、税金がかかった。合理的に行く方法はないかと思いをめぐらしていたとき、81年に韓国で第1回金型関連機器展が開かれるというのを聞き、これだと飛びついた。

 展示会はどうでもよく、韓国で遊びたい一心で毎年この展示会に参加するようになったのだが、参加2年目に韓国のある社長を紹介してもらい交流を始めた。LGやサムスンSDIも興味を示し、取引するようになり、不純な動機で参加した展示会をきっかけにビジネスの輪が広がった。

 ――韓国に合弁会社をつくったが、そのいきさつと事業内容は。

 最初に知り合った韓国人の社長と技術提携し、親しく交流するうちに韓国の事情もわかってきた。80年代初めは円高が進んだころで、モーターコアをつくっていた城山産業の社長に韓国人社長を紹介し、うちもカネを出して87年に資本金4億円で大邱の近くの論工工団に合弁会社「韓国城山」を設立した。モーターコアやジェネレーター、スターターなどの自動車部品を手がけている。順調に業績が伸び、94年にはコスダック(店頭市場)に上場するまでに成長した。

 このほか、新韓技術センター、OSKインターナショナル(近く韓国城山に吸収)を発足させ、韓国には合弁会社が3社ある。売上高は3社合わせて50億円ほどだ。

 ――韓国での事業がうまくいった秘訣は。

 年に十数回は韓国に行くが、韓国のパートナーや取引先とは、裸の付き合いをしている。結婚式や葬式にも必ず行くし、親戚と同じだ。大会社なら、担当者が変わればそれでおしまいの関係だが、われわれはオーナー同士、死ぬまで付き合う。日韓の間には歴史上の問題があって、ある垣根を超えられない。この壁を突き破って真摯に付き合えば、世界にこれだけ親しくなれる民族はいないと思う。

 ――韓国の金型産業をどうみるか。

 展示会に最初に参加したころは遅れていた。しかし、いまはCAD/CAN(コンピューターによる設計)が可能になり、金型の製法が変わってきた。スタンダードでは、日本、韓国、中国の差がないと言っていいだろう。しかし、金型はアイデアで様々に変化し、生産技術や材質、表面処理などでも技術の差が出る。そういう意味で、韓国は技術の蓄積が足りない。その原因の一つは、技術者が会社に定着しないことだ。韓国は儒教の国なのに社員の愛社精神が薄い。経営者も愛社員精神が弱いと思う。永年、韓国の業界を見てきて、社長が社員を大事にしている会社は伸びる。韓国はITで一発当ててやろうという人が多い。こつこつ地道にやるモノづくりが必要だろう。

 ――社長は、韓国から研修生を受け入れるなど、人材の育成に尽力しているが。

 国立ソウル産業大学に金型学科というのがあり、かれこれ20年、夏休みにインターンとして学生を受け入れている。日韓経済協会や国際協力事業団などを通じた研修生の受け入れも行っており、600人くらいを指導した。うちで学んだ学生は275人にのぼる。この功績が認められ、一昨年、韓国の「金型の日」の記念式典で大統領表彰を受けた。

 韓国には国立ソウル産業大学をはじめ17校に金型学科があり、毎年1700人が卒業している。日本では、金型は町工場や中小企業がやるもんだという意識があり、金型教育では韓国に遅れをとっている。このため、金型工業協会の会長として、大学にぜひ金型学科を新設するよう提言し、ようやく去年、岐阜大学に設置された。今年は群馬大学、芝浦工業大学にも開設される。

 ――日韓関係をさらに発展させていくためには何が必要か。

 江戸時代の儒学者で、朝鮮通信使のときに活躍した雨森芳洲は、朝鮮との交流について、「何よりも相手の人情、風俗を知ること。余計な駆け引きをやめ、誠心の交わりを貫かねばならない」と説いた。これに尽きると思う。芳洲は私のふるさとの出身で、韓国からやってきた研修生や学生は、必ず滋賀県の雨森芳洲記念館に連れて行く。日韓にこういう善隣友好の時代があったことを知ってほしいためだ。

 違う言語を有し、独自の歴史と文化を持つ国とはイコールパートナーとして対等に付き合わなければならないというのが私の持論だ。当社では、外国人に対して差別的言動を行った場合には、即刻クビだと社員に教育している。グローバル時代には、外国人としてではなく、同じ人間として付き合うことが最も大事なスタンスである。