40年前、資本も技術もない韓国が一貫総合製鉄所を建設することは夢物語と見られていた。事実、欧米諸国、国際機関からの協力は得られなかった。その危機を救い、日本の政財界との仲介役を果たされた人がいた。歴代首相の指南役とされ、政財界に大きな影響力があった陽明学者の故安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏である。どんな役割を果たされたのか、二男の安岡正泰氏に聞いた。(編集局長・金時文)
――ポスコが創立40周年を迎えました。今や世界的な鉄鋼メーカーになりましたが、どんな印象をお持ちでしょうか。
まずポスコが40周年を迎えたことにお祝い申し上げたい。40年というのは、長いようで短い期間であり、たった40年で世界有数の鉄鋼メーカーになったということは、大変なことであり、非常に素晴らしいことだと思う。かつて「鉄は国家なり」といわれたが、世界にも稀にみる立派な製鉄所をつくりあげられた。このような国を挙げての力強さがあったから「漢江の奇跡」が生まれたのではないか。新たに就任した李明博大統領は未来志向を掲げており、ますます充実した韓国の将来がうかがい知れる感がしてならない。
――草創期に日本鉄鋼業界の協力を得る上で、安岡正篤氏のお力が大きかったと朴泰俊氏は振り返っています。どのようなお力添えをしたと聞いていますか。
父はあまり外のことを家族にはしないほうだったので、詳しいことは聞いていないが、資料などを見直してみると1969年7月に朴泰俊社長が日本に来られ、父と古くから親交のあった八幡製鉄所(現新日鉄)社長の稲山嘉寛氏と3人で会っているとある。
父は戦後、全国師友協会をつくり、稲山氏は副世話人に就いていた。そういう関係もあって、日本の鉄鋼業界の第一人者である稲山氏に前もって朴泰俊氏の話をして、この席を設けたと思われる。
――当時、韓国でも総合製鉄所が必要だと考えたのは朴正煕大統領と朴泰俊氏だけだったといいます。安岡正篤氏はなぜその必要性を認めたのでしょうか。
父のところには勉強会を通して、政治家や経済人が来ていたが、特に政治問題については具体的な政策などに父が関与していたということは一切なかったと思う。佐藤栄作首相(当時)とは一番親しくしていて、国会演説資料などについては、必ず首相秘書が事前に持ってきて、表現の仕方などを相談されていたと聞いている。
韓国で製鉄所をつくるといった時に父が経済的なことや規模について云々したことはないと思う。ただ、外交という大きな観点から見ていけば、お互いに名誉ある外交のあり方が必要ではないのかという、基本的な話をしたのではないだろうか。
――安岡正篤氏は朴泰俊氏と初めて会った時、「彼は男児中の快男児である」とおっしゃられたといいます。どんな意味をこめたのでしょうか。
父は朴社長のことを「快男児」だと側近に漏らしていたと聞いている。父は経済問題に詳しいわけではないが、朴社長とお会いした時に日本人から失われつつあるものを持っている朴泰俊という人物に惚れたのではないかと思う。何でもやり遂げるという気骨と品格や風格を見て、日本の経済界や政界のトップに紹介をしてもいいのではということが根底にあったのだと思う。父が探求していた学問は東洋的な人間学だったので、信頼できる人物ということから長いお付き合いが始まったのだと思う。
――安岡正篤氏は歴代首相の指南役と聞いています。対韓政策ではどんな指南があったのでしょうか。
対韓政策について父がどんな指南をしたかということは分からない。ただ、父は東洋の歴史というものを非常に大事にしていて、共存共栄していくため、お互いの歴史を尊重しながら関わっていかなければならないと考えていたのではないかと思う。日本は一時期、満州国というものを作ったが、父はそのことについて非常に疑問を持っていた。また、朝鮮の植民地化についても非常に疑問を持っていた。現地の人の土地を奪って日本の農民を送り込むようなことは間違っている、現地の人たちから嫌われる一方だと日本政府に提言はしていたようだったが、結局取り上げてもらえず、非常に残念がっていたようだ。
その後、日本は敗戦を迎え、一文無しとなったが経済的には繁栄を取り戻した。しかし、隣国に対して、恩恵を日本が独占するのではなく、経済的にも友好関係を保つことが大事だということを父は強調してきた。
――現在のポスコ、朴泰俊氏とのお付き合いをお聞かせください。
私は父が亡くなるまでは朴社長とお会いしたことはなかった。その後も長男である兄が父に代わってお付き合いさせて頂いていたと思うが、その兄も亡くなりました。その後、私と稲山氏のご子息と一緒に2、3度ほど東京でお会いしている。また、1987年の光陽製鉄所オープン式に招かれお会いしている。第一印象は、非常に意思が強く、日本人の失われた武士道精神のようなものを持った方だと思った。朴社長の姿、格好はもちろんのこと、話の内容から、それらが感じ取れた。
父からよく「縁を大事にするようにしなさい。人間はすべて縁から始まる」といわれたが、朴社長とのご縁も大事にしていかなければならないと感じている。
――ポスコは韓国だけでなく、日本にとっても大きな成功体験です。安岡正篤氏と朴泰俊氏の歴史的役割をどうお考えですか。また、そこから何を学ぶべきでしょうか。
よく父は、問題にぶつかった時は原点に帰れと言っていた。国家間の問題においても、歴史を遡る、あるいは原点に立ち戻る、ということは非常に大事ではないかと思う。これをポスコと日本に当てはめた時、40年前に韓国側、日本側から、どんな人たちが携わってポスコの原点となった浦項製鉄所を作り上げたかということを、もう一度検証し直す必要があるのではないか。
共存共栄というが、それは日本にとって戦後復興して製鉄所を建設したが、他には教えないで自分たちのものだと囲ってしまうことではない。韓国で何か立ち上げるとなった時、喜んでそれを応援することが友邦国としての務めであろう。きっと父も墓の下から朴社長をはじめ関係者の人たちに本当に40周年おめでとうと言っていると思う。
これは私の考えだが、韓国と日本のこれからのあり方を考える時、国家である限りぶつかることはあるだろう。しかし、両国は同じ儒教国家としての精神的基盤を持っている。そういうものを通して経済関係における相互の協力関係を未来志向的に進めるべきだろう。文化的・精神的な交流と経済交流を車の両輪にすれば、そこからお互いの未来というものが見えてくると信じている。
――最後に韓日関係発展への提言をお聞かせください。
大統領就任の際に福田総理は李大統領と会っているが、未来志向で関係を強化することに合意されている。私もそうすべきだと思う。民族というのは、どの民族も誇り高きものがある。しかし、それに固執するのはどうかと思う。例えば、日本が一時期間違った方向に進んだ時、日本は大和民族であって素晴らしく、他の国など比べ物にならないといったような極右的な考えが流行ったが、父はそれを物凄く嫌った。
米国にはフロンティアスピリットというものがあり、英国に行けばナイトというものもある。それぞれの国には民族の中心になるものがある。日本もそういった象徴的なものを融合していく形で進んでいくべきだと父はよく言っていた。そういうことを考えれば、今後日本民族と韓民族は、手を伸ばせば届くような距離にいるのだから、経済的にもお互い資源のない国なのだし、腹を割って話し合い、共存共栄していくことを考えなければならないと思う。
やすおか・まさやす 1931年東京生まれ。早稲田大学第一法学部卒業。日本通運入社。常務取締役中部支店長などを経て退任。関係団体役員を経て99年より(財)郷学研修所・安岡正篤記念館理事長。