房総の海は波静かで、館山湾を臨む丘陵は別天地のようだった。千葉県館山市にある婦人長期保護施設「かにた婦人の村」に深津文雄牧師を訪ねたのは、かれこれ10年ほど前だ。
▼戦後、売春防止法の施行で、苦界に身を沈めていた女性たちが解放されたが、行き場を失い路頭に迷う人が多かった。特に精神を病み、障害を持つ女性たちは受け入れ先が見つからず、苦境に立たされた。それを見かねた深津牧師が、「世間に見捨てられた女性たちを救うには、生活を共にし、苦楽を共にする以外にない」と開設したのが「かにた婦人の村」である。
▼ここには百人近い寮生(牧師はこう呼んでいた)が共同生活を営み、元従軍慰安婦や韓国・朝鮮人もいる。過去に封印し、自分の名前すら忘れて、この村で生きる女性たちの姿に、暗い陰はなかった。農作業、酪農、パンづくり、機織り、陶芸など自給自足の生活を送る彼女たちのくったくのない笑顔が忘れられない。
▼海を見おろす丘の上に、従軍慰安婦の鎮魂碑がある。そこには深津牧師の書いた「噫 従軍慰安婦」という、たった6文字が刻まれている。小さな碑の前に立ち、万感胸に迫る思いだった。
▼迎えてくれた深津牧師は、あごひげが胸までとどき、仙人のような風貌だったが、眼鏡の奥のひとみはやさしく、村の経営には多くの苦労があるだろうに、そんなことは微塵も感じさせなかった。「自分ひとりでも韓国に対して深々と頭を下げたい」という牧師のことばがいまも耳に響く。
▼ユートピアの主、深津文雄牧師は、今月17日、90歳で老衰のため亡くなった。牧師が演奏するチャペルの古いオルガンを聞いてみたかったが、残念だ。(A)