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2001/08/17

<随筆>◇56年前の8・15◇

 「8・15」解放当時みんなと一緒に喜べなかった人たちがいる。

 「同じ韓半島出身の仲間の林永俊さんが処刑のその瞬間、トンイッ・マンセー(統一万歳)と叫んだ。その叫び声がいまも耳元に残っている」。こう語る李鶴来さん(76)は解放後の1947年、BC級戦犯としてシンガポールのチャンギ刑務所で死刑執行を待っていた。

 「自分の国が解放され、みんな喜んでいるのに私は死刑になり、対日協力者としての負い目、辛さ、だれのために死んで行くのかと悩み続けた」。そんな李さんの胸の内を本紙も詳しく紹介したことがある(98年8月14日付特集参照)。

 李さんは17歳の時、故郷の全南宝城郡から日本軍の命令で泰緬鉄道の俘虜監視人として勤務させられた。戦後、俘虜に対する日本軍の虐待の責任まで負わされ国連軍により死刑を宣告された。その後20年に減刑され、身柄は巣鴨刑務所に移された。

 釈放されたのは10年以上たった56年10月。日本人軍人・軍属は恩給などの補償を受けていたが、李さんたちはもう日本人ではないということで、何の補償もなく路頭に放り出された。日本政府の補償と謝罪を求める闘いが始まったのは、このときからだった。99年には最高裁判所から「立法府の責任あり」との判決を引き出し、これを頼りに立法府に働きかける運動を続けている。

 物静かであまり表情を表に出さない李さんだが、その粘り強い強靭な精神に在日の後輩として頭の下がる思いだ。「刑場に散った同胞たちの無念を忘れることができない。名誉を回復するまで死ねない」からなのだろう。その胸に秘めた思いの強さというものを考えさせられた。(U)