8月も後半のある日、仁川空港で乗り込んだタクシーの運転手さんはかなり年配で饒舌だった。12月に迫った大統領選挙の予想をひとしきり聞かされたあとに、某候補の子息の兵役不正問題から、話は50年前の韓国戦争になった。「この問題は、実際に戦争を体験している私から見れば、本当に堪らない話ですよ」後姿に年輪を感じさせる運転手さんは、問わず語りに話し出した。
「私は前線で鉄砲玉を潜り抜けて来た。生きているのが不思議なくらい。腕にはまだ鉄砲玉の破片が残っている」といって、傷が残っている右腕を見せてくれた。
「当時は大邱の19歳の学生、いわゆる学徒出陣で戦争が何かも分からず、大砲も見たことがなかった。最初は衛生兵として派遣され、毎日、病院で負傷した兵隊の救護にあたっていたが、そのうちに怪我をした兵隊の代わりに前線に借り出された。多くの友人達も同じように前線に回された。そして死んで行った」
「平壌の前線は、まさに殺戮の場、人間は戦場で血を見ると、自分の目も血の色に充血し、頭は真っ白になり、完全に人間性を失う。思考もストップする。頭の中は殺すか殺されるかだけ。朝一緒だった友人が夜には消えている毎日だった。生と死の分かれ目は運だけだった」
「傷ついて息絶え絶えの同僚の、サルリョチュセヨ(助けてくれ)という言葉が、今でも耳にこびりついている」
「中国が参戦してから再度苦戦が始まった。中国の兵隊は目の前の戦友が倒れても踏み越え踏み越え前進してくる。人間とは思えなかった」
「昼間、我々が占領した地域を夜には奪い返されるという一進一退が続いた。毎日が今日で最後と思っていた」
車窓から見る漢江は真夏の太陽を反射してキラキラ光っていた。当時の漢江は橋が1本しかなく、それも、北からの攻撃を食い止めるために爆破したという。重苦しい空気から逃れるように、愚問と知りつつ質問した。
―同じ民族で戦うのは、さぞ複雑な気持ちでは?
「戦場では相手のことを考える余裕などない。頭の中はいかに生き抜くかだけ」
―怖くて逃げたくなるようなことはなかったですか?
「正直言ってあった。でも見つかると即座に銃殺。進むしかなかった」
私の父親は、第2次世界大戦で戦死しているだけに、運転手さんの言葉がずっしりと胸に響いた。
「帰還後はある会社の運転手として平凡な、しかし平和な生活を送ってきた。この小さな幸せも、私達の身代わりとして銃弾の犠牲になった同僚たちのお陰と感謝せずにはおれない。この経験は私たちだけで十分」
3年余に亘る韓国戦争は、民間人も巻き込んで数百万人の犠牲者を残した。南北融和は掛け声だけでなかなか進まず、先日も黄海で銃撃戦があった。一方では最近になって緊張緩和の動きも出て来ている。はからずも老運転手さんの生々しい話を聞いて、間違っても時計が逆戻りしないことを心の中で祈っていた。
(本紙2002年8月30日号掲載)
おおにし・けんいち 1943年福井県生まれ。83―87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、昨年7月から新・韓国日商岩井理事。