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2002/07/05

<随筆>◇水原に遊ぶ◇ 崔 碩義 氏

 久しぶりに暇を見つけて水原城(華城)に遊んだ。水原の人たちの自慢は、華城の城郭全体が世界文化遺産に指定されたことである。水原華城は、韓国の数ある城郭のなかでも最も優雅で華麗なことで知られている。

 まず、城の南門「八達門」を間近に見ると、さすがに雄壮で、前面にせり出した半円形の甕城の形がとても格好いい。ソウルの「南大門」よりも一回り二回りも大きい。

 水原華城は、四つの城門をはじめ将台、水門、砲楼、舗楼、雉城、トーチカの役割をする空心ホ、暗門(秘密通路)、烽ホなど48箇所もの施設からなっており、それを城壁が連結する。

 華城で最も高く、全体の指揮所があったのが「西将台」で、ここは眺望に優れ、すでに大勢の観光客がたむろしていた。

 次に訪れた「長安門」は、華城の正門というだけあって八達門におとらない威厳を示していた。「華虹門」は華城のシンボルといわれる水門で、石で作られた七間のアーチが何とも風情がある。また、そこから近い「訪花随柳亭」は、躑躅に柳、亭子と池が調和している庭園で、水原八景の名に恥じない名勝。

 私は城壁の道を伝って、東門の「蒼龍門」まで歩きながら城の歴史に思いを馳せた。

 水原華城は、朝鮮王朝第23代王正祖(在位1776~1800)が、父親である思悼世子に対する孝心のために築城したということに注目する要がある。いうまでもなく思悼世子は先王の英祖によって米櫃に閉じ込められて餓死するという悲劇の人である。

 やがて、52年間にわたる英祖の長い治世が終わり、英祖の孫である正祖が王位に就くや、それまで抑えられてきた非業に死んだ父親、思悼世子への異常とも思える孝心が噴き出し、追慕の念が形となって現れる。

 正祖は思悼世子のそれまでの貧相な墓を掘り起こして、水原の花山に大きな陵を造営して移葬した。それにとどまらず、現在の水原の地にわざわざ新しい城郭都市まで建設し、毎年1回はソウルから文武百官を率いて父親の墓参をするのを常としたのである。

 なお、築城直後に編纂された『華城城役儀軌』という資料によれば、築城に使った資材の種類、数量、建物の絵図などが克明に記録されていて、例えば、実学者の丁若ヨンが考案したという起重機の構造なども知ることができる。私は、ようやく東門の「蒼龍門」に着いたところで、疲労困憊。城見学を切り上げる。

 その夜、水原名物のカルビ焼きを食べようと比較的大きな焼肉ガーデンに入ったところ満員で断わられた。何と!日本ではいま焼肉店という焼肉店が狂牛病騒ぎで客が寄りつかないというのに。

 幸い、次に入った焼肉店で腹を満たすことができた。「水原カルビ」というのは最初からいろんな薬味で味づけした肉を炭火で焼くもので、私の舌に程よく合って美味しかった。
                   (本紙 2002年4月26日号掲載)

  チェ・ソギ  フリーライター。慶尚南道出身。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学専攻。