ソウルまだん俳句会(ソウル俳句会OBの東京会)からの連絡で嵩史の急死を知った。ソウル俳句会の生みの親の一人とも言われる嵩史・礼子夫妻は当然のことながら俳句をこよなく愛していた。嵩史の句は礼子に比べて決して巧いとは言えないものの、ソウルに骨を埋めるつもりといつも語っていたようにソウルの生活が生き生きと詠まれていた。二人ともホテル関係の仕事をしていて忙しい筈なのに、毎月のソウル俳句会は欠かしたことがなかった。
日本人は外国生活をすると無性に俳句を詠みたくなると聞いたことがある。嵩史の場合が全くそのケースであり、ソウルに来てから俳句にはまったようだ。60歳になってから始めた俳句が彼の生き甲斐になっても不思議はない。
3月末のまだん俳句会の吟行会は京王百草園で行われ、いつもなら10数人は集まるのにこの日は8名という少人数の会となった。主宰の戸津が今日の句会はソウルで急逝した山口嵩史氏の追悼俳句会にしたいと告げた。
十歩先で嵩史小手振る竹の秋 真乎人
このとき詠まれた主宰戸津の句である。
9月のまだん俳句会の席で今や未亡人となった礼子から送られてきた嵩史の記念にという白磁の壷が配られた。嵩史の句が直筆で塗り込められていた。
咲くも良し咲かなくも良し春の山 嵩史
あの無骨な嵩史からは想像できない、やさしい柔らかい筆の流れであった。
10月になってやっとソウルに行く機会を得た。せめてお悔やみだけでも言いたくて礼子を訪ねた。意外と明るい顔の彼女が焼香してくれるかと言ってくれた。霊前に置かれた遺影となった嵩史の大きな顔がこちらに微笑みかけてくる。69歳にしては若々しい。生前は健康そのもので一度だって病院に行ったことがない。突然襲った脳溢血が一瞬にしてそんな頑丈な嵩史の命を奪ったのであり、苦しみはなかった筈と、まるで自分に言い聞かせているように礼子が話した。
そして霊前に置かれた和綴じの冊子を取り上げ、全部で8冊あるはずなのに1冊どうしても見つからないのと言いながら見せてくれた。和綴じを1枚ずつめくっていった。嵩史がソウル俳句会で詠んだ句が1句ずつ達筆な墨で書かれていた。そんなに几帳面な性格だったのか、生前の彼からは思いもつかないことであった。改めて嵩史が如何に俳句を愛していたかを知らされた。俳人の称号を贈ってもよいと思った。
妻唄いキッチンドリンク春近し 嵩史
鉢植えの唐辛子摘み夕支度 礼子
俳人嵩史の冥福を祈る。
たけむら・かずひこ 1938年東京生まれ。94年3月からソウル駐在、コーロン油化副社長などを歴任。98年4月帰国。日本石油洗剤取締役、タイタン石油化学(マレーシア)技術顧問を歴任。