大相撲の中継を見ているといつも思い出す一人の「お相撲さん」がいます。80年代初めから2000年位まで忠武路で昼は出来たてトシラク(幕の内弁当)、夜は河豚料理とチャンコ鍋をウリにして大繁盛した日式「自阪(ジャパンと読みます)」といえば、当時ソウルに駐在された方なら一度は行かれたことはあると思いますが、ここの主人が知る人ぞ知る元大相撲で前頭6枚目まで張った天津灘関です。3年前に71歳で亡くなられた時には産経新聞の黒田先輩が当欄で哀悼の詞を述べておられたので、ご記憶の方もおられると思います。
関取は佐賀県牛久生まれの在日2世、乱暴で手がつけられなかった中学時代を経て佐賀の関部屋に入門、大鵬の兄弟子となり相撲界引退後は大鵬のお姉さんと結婚して大阪に店を持ち、いろんな事情で78年頃ソウルに来て、いろんな事情で自阪を開店したのでした。さて関取はやはり元力士らしく大酒豪でした。客が引ける9時頃から始まり、私が知り合った当時は毎晩一升酒でした。
時にはカラオケにも行ったのですが、関取が歌う唄は必ず韓国歌謡の「ナチンバン(羅針盤)」「チョンノヘカルカヨ~、ウルチロヘカルカヨ~」と自慢の喉を披露していました。後で良く考えてみますと、この曲は佐賀県伊万里の地方歌謡と詞もメロディーもそっくりなのです。「どっちゃいまぎろかにゃ~、こっちゃいまぎろかにゃ~」(どっちに曲がろうかなァ、こっちに曲がろうかなァ)との意味で、関取もソウルの地に根を下ろしたものの子供の頃過ごした懐かしい地に思いを馳せていたのでしょう。
関取はまた、下手なくせに大の麻雀好きでもありました。前日の売上をワンサとつかみ腹巻に押し込んでは麻雀をやっていました。「関取ッ危ないから銀行に預ければ 」と勧めると「オリャ預金の仕方を知らんもん」でした。500ウォン銀貨を豚型貯金箱に貯めては、毎年大晦日に開けて「ウォッこんなにあったぜぃ」とはしゃいでいましたが、下働きの娘ん子にそっくり持ち逃げされて「豚(トン)貯金箱持って豚ヅラされたァーッ」とそれでもくだらないシャレを云いながら泣いていたのもこの頃でした。
ゴルフも大好きで(これはシングル級でした)、昔の日本人会コンペには必ず参加していました。背中のディスク手術後はゴルフも出来ず酒量も落ち、麻雀もメンバー不足で遠のき寂しい日々でしたが、またまた、いろんな事情で韓国の代表的純粋田園女性と再婚してからは欲も得もない静かな晩年でした。
私は彼が生きて来た様(サマと読んで下さい)を垣間見る時、今の日本人には絶対に見られない、世事に疎くても義理と情に厚く、泣き言・愚痴は死んでも口に出さない、いぶし銀のような日本人の典型、現代の日本人よりもずっと日本人らしい人物像を見つけたような気がして、今でも時々「関取ッ」と呼びかけています。
たくぢ・りょういち 1943年満州国生まれ。東京都立大学人文科学部卒。69年ヤクルト入社、71年韓国ヤクルト出向。94年から同社共同代表副社長代行。