韓国の春はケナリ(レンギョウ)から始まると言う。長い冬の寒さがようやく緩みだした頃に、ケナリは突然、鮮やかな黄色で春の訪れを告げる。それまで殺風景だった韓国の街並みは、ケナリの開花を潮に一気に華やかになる。
83年の3月始めに初めて韓国・釜山の地を踏んだ時、地肌剥き出しの山野は荒涼としていたが、ある日突然、高速道路沿いの雑木が真っ黄色な花の帯となって延々と続いていた。あまりに唐突な咲き方と鮮やかな色合は感動的であった。それがケナリとの最初の出会いである。以来、毎年春が近くなるたびにケナリの花を心待ちするようになった。密かに想っている恋人を待つように。
今年の出会いは3月24日、アパート前の庭での再会だった。でも今年のケナリは悲しい知らせを運んできた。私が人生の師と敬愛する先輩のOさんが、その日に亡くなったのだ。O先輩はカメラが趣味で、私の部屋には先輩から頂いた四季の花を満載した写真集が大事に飾ってある。どの写真もプロカメラマンのような見事な出来栄えだが、全てO先輩自身が撮影したものだ。多忙な商社マン時代の先輩には、写真の趣味があるとは見えなかったが、病気のため早めに退職された後は、全国津々浦々を旅行しながら、隠れたカメラマンの才能を磨いたようだ。
O先輩は最近では珍しい硬骨漢であった。筋の通らない事は大嫌いで、小柄な体の中にひたむきな激しさを秘めていた。一方で弱い者には優しく、女性にも抜群の人気があった。私も仕事だけでなく、プライベートな相談に乗ってもらった事も一度や二度ではない。いつも行きつけの赤坂の居酒屋「ライオン」で生ビールを傾けながら先輩のアドバイスを聞いていた。その先輩が東南アジア駐在の時に無理が祟ったのか大手術を受けた。久しぶりに会った時は見違えるように痩せていて驚いたが、持ち前の強靭な精神力で回復、韓国へも出張や旅行で来て韓国の自然を撮りまくっていた。
ソウルでは焼酎と焼肉で再会を楽しんだものだが、間もなく病気が再発、会社を辞めて治療に専念されていた。数年前にキムチのお土産を持参した時は予想以上に元気で、「毎日カメラを抱えての旅行三昧。折角与えられた人生、どんな時でも精一杯生きるのが私の人生哲学。大西君も小さな事にクヨクヨせんとドーンと構えて生きなよ」と却って励まされた。今から思えば、すでにある覚悟はされていたのかも知れないが、深刻な病気にも拘らず淡々とした話ぶりに、先輩の人間の大きさを感じていた。
ケナリが咲いた翌日、昔の同僚から電話があった。「Oさんが昨日亡くなった」「最後まで家族と一緒で、好きなカメラと酒を楽しんでいたらしいよ」。O先輩らしい。その夜、先輩の形見となった写真集にお別れの乾杯をした。溢れる涙で写真は霞んで見えた。
(本紙 2003年4月11日号掲載)
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83-87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事