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2004/06/18

<随筆>◇新羅(シルラ)の花郎(ファラン)◇ 崔 碩義 氏 

 慶州に行ったとき、花郎地区にある金ユシン将軍の墓を見に行った。金ユシン将軍といえば、かつて新羅がなしとげた三国統一のときの英雄である。正確には太宗武烈王が内政と外交面で手腕を発揮し、金ユシン将軍は軍事面で貢献した。こうして両人は見事なチームワークを組んで統一の大業をなしとげたのだ。したがって、今でも慶州では、金ユシン将軍の馬にまたがった銅像は人気抜群である。

 その金ユシン将軍は15歳で花郎団に加わり、18歳でその花郎集団を代表する「国仙」に選ばれて、やがて智勇兼備の名将になったのである。では、新羅の花郎とはどんな制度であったのかを見よう。

 花郎は、新羅貴族のなかでも容姿端麗な少年から選ばれ、普段は風流を愛し体を鍛錬する。だが一旦、国家有事に際しては戦士として勇敢に戦うのを常とした。それにしても子の花郎という名はとても魅力的で、男の中の男というイメージがともなう。

 花郎団の一員に選ばれるということは、とりも直さず、将来の国家のエリートになることをも意味した。そういうことから花郎は、今風にいえばとても格好のよい男に映り、国中の若い女性たちの憧憬の的になったのはいうまでもない。

 文献に伝わる貴山と箒項という2人の花朗の例を挙げよう。2人は、阿莫山城の戦闘で百済と戦ったとき、味方の形勢が不利になるや、ともに敵陣に突進し戦況を有利に導き敵を撃破するのに大きく貢献したという。しかし2人は力尽きて自陣に帰れず戦死した。

 また、官昌という花郎の如きは、16歳で黄山の戦いに出陣し敵に捕らえられた。百済の階佰将軍は官昌の若さと勇敢さに感嘆して、殺すのにしのびず、新羅の陣営に送り返す。ところが官昌は、再び志願して敵の陣地に突撃して戦死する。階佰将軍は又もや、その首を乗馬にくくりつけて丁重に新羅側に送り返したと伝わる。

 ここで話は変わるが、最近、中東などで反米運動の一環として若者の自爆テロが頻発している。そうせざるをえない状況は理解できなくもないが、やはり人間として生まれてきた以上、自ずから生命を絶つという行為はあってはならないと思う。

 話を戻すと、花郎は当時の骨品制度による貴族階級の子弟からのみ選ばれた。新羅の隆盛期には、花郎出身の宰相や将軍が数多く輩出し、三国統一の原動力になったのだが、さしもの花朗制度も、新羅が衰退期に入るともに、あだ花のように廃れていく運命をたどった。

 最後に日帝時代の話を1つ。日本の海軍将校を養成する江田島の海軍兵学校生徒の短剣姿はとても凛々しく、いわば花朗のような面影を漂わしていたといえなくもない。ただし、その海軍兵学校に入るのは難しく、とくに朝鮮人の場合は、陸軍士官学校への入学は許しても、海軍兵学校には入学させないという不文律があったことは、案外知られていない。


  チェ・ソギ  フリーライター。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学史専攻。慶尚南道出身。近著に『金笠詩選』(平凡社・東洋文庫)がある。