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2004/03/12

<随筆>◇余大男の涙◇ 崔 碩義 氏

 壬辰倭乱では多くの朝鮮人が被虜人として日本に連行された。余大男もそのうちの1人で、13歳のとき慶尚南道河東で加藤清正の配下に捕えられ、熊本に押送。預けられた本妙寺では、余大男の才智を見込んで京都の五山に送り修行させた。余大男29歳のとき、呼び戻されて本妙寺3代目の住職を継いだ。後の日遥上人である。被虜人がこうした巨刹の高僧になるということ自体異例である。

 或る日、父余天甲から一通の手紙が届く。

 父から余大男へ(要約)

 風の噂でおまえが熊本の本妙寺で住職をしていると聞いた。お前が元気だと知り、嬉しかったが、僧になり日本で何不自由なく暮らしているから帰らないのかと恨みがましくもあった。おまえも今や40歳、父母の生前に戻ってくることも孝行ではないか。急いでおまえの主人に告げ、帰国の意を懇ろに言いなさい。父と子が1つの処で余生をともにできれば、如何ばかり楽しいことだろうか。

 庚申(1620年)5月7日 父余天甲。

 余大男から父親へ(要約)

 思いもかけず手紙をいただき感涙にむせんでいます。捕らえられて今日まで28年間、何の罪があって我が身はかような遠い地に置き去りになったのでしょうか。私はすぐにでも父上様母上様の前に駆けつけたい思いでいっぱいです。そのためにはその日の夕べに死んでも悔いることはありませんが、今日までこの地で主人の禄を食んで生きて来たというのも事実です。どうかもう数年心を和らげてお待ちください。事情を藩主に泣訴陳情し、誠をもって2、3年間の暇を乞うてみようと思います。彼らもみな人の子です。心打たれることがないとは限りません。

 庚申10月3日、迷子大男 謹拝。

 父から第2信(要約)

 おまえと別れて30年ぶりに手紙をもらい、嬉しくてならなかった。ところで、昨年6月から2度も3度も日本に返書を送ったが、おまえからの返事をもらえず昼夜涙をのんでいる。父の余命は幾らもない。藩主に嘆願してみなさい。年とった両親には、ほかに子女とてなく私一人だけだと。天と地を指して、懇切にお頼み申し上げなさい。おまえは今他人の国にいる。注意して身を処し無事に戻ってくるようにしなさい。壬戌7月、父余天甲。

 余大男から父親へ2回目の返信(要約)

 平伏して御父上様の机下に捧げます。清正公の3年喪も終わったのでいろいろと手を尽くしました。世継ぎの藩主は年若く、見識にも乏しいため私の懇願に気分を害し、なかなか決断してくれません。今では兵士たちが厳重に監視する始末です。未だ形勢は芳しくないという私の意をお汲み取りください。

 息子、百拝頓首 乙丑(1625年)1月。
 
 権力者の無理解によって父子の再会は拒まれて終わった。日遥上人(余大男)はとうとう帰国を諦め、父母の位牌を準備してずっと祭祀を欠かさず、79歳で死んだという。


  チェ・ソギ  フリーライター。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学史専攻。慶尚南道出身。近著に『金笠詩選』(平凡社・東洋文庫)がある。