近頃「ディアスポラ」という目新しい言葉をよく目にする。このディアスポラという言葉は、その昔バビロンで集団的に離散したユダヤ人を指すギリシャ語に由来するもので、「離散民」と訳すことができよう。そのほか、民族や集団からの離散に派生するさまざまな状況を表現する場合に用いられるようだ。
情報化時代が益々進み、言葉もだんだんとグローバル化して行く中でこうした概念規定が必然的に要求されるのであろう。
言うまでもなく「コリアン・ディアスポラ」とは、朝鮮半島からこの一世紀の間に日本、中国、ロシア、アメリカ、カナダなどに流失した約六百万人もの同胞を指す。勿論、これは過去の日帝の植民地政策と、その後の国土分断などによってもたらされたものである。
華人ディアスポラ、黒人ディアスポラの場合もそうだが、これらの言葉には苦難の歴史、寄留国での葛藤のイメージが強い。だが、これからの時代はそれを悲壮的に捉えるのではなく、むしろ、逆手をとって逞しく生きて行く発想が求められるのではなかろうか。
最近、徐京植『ディアスポラ紀行』(岩波新書)、『ディアスポラを超えて』(アジア太平洋研究センター)、梁順『コリアン・ディアスポラ』(明石ライブラリー)といった本が続けざまに出版されて、「在日」のさまざまな状況を鋭く論じている。
とくに『コリアン・ディアスポラ』の著者である梁順(ソニヤ・リャン)さんは、異色の経歴を持つ。彼女は朝鮮総連系の朝鮮大学を卒業後、イギリスに留学。ケンブリッジ大学で社会人類学の博士号を取得し、現在はアメリカのジョンズ・ホプキンス大学という名門校で教鞭をとる。
彼女はアメリカで「コリアン・ディアスポラ」に関する優れた論文を続けざまに発表し、大学ではもっぱら「在日朝鮮人の問題」を講義しているというからそのバィタリティーには驚嘆する。
余談だが、これからは才能のある若い「在日」はどしどし日本から脱出し、世界に新天地を求めて活躍すべきだろう。やがてそうした人たちの中から人類文明に寄与するような人物が輩出することを期待したい。
これまでの「在日」は、おおむね日本の社会からさまざまな差別と規制を受けながらも、民族的な根源、記憶を保持して生きてきた。ところが、新しい世代は「生まれたところ、住み慣れたところがふるさと」という言葉に多くの者が強く共感するようになった。
今後「在日」は、民族や集団に依拠した生き方をするのも、或いは日本の国籍を持った生き方をするのも共に一つの見識に違いない。重要なのは、自分自身が何者であるかという根元、すなわち見つめた上での決断であって欲しいと考える。
「コリアン・ディアスポラ」という言葉は、こうした本質的なことをわれわれに厳しく突き付けているように思えるのである。
チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『在日の原風景-歴史・文化・人』(明石書店刊)などがある。