ここから本文です

2005/10/14

<随筆>◇釜山随想◇ 崔 碩義 氏

 私は8月初旬、釜山の海雲台で開催された「第2回日韓歴史研究者共同会議」に参加した。この国際研究学会は、故朴慶植氏が創立した在日朝鮮人運動史研究学会と、韓国における姉妹団体である韓日民族問題研究会が共催したものである。討議の内容は詳しく述べられないが、一言でいって最近、日本の右翼分子による「朝鮮人強制連行虚構論」などが横行している状況に対して、一撃を加える意味合いがあったのは言うまでもない。

 次の日の朝、早起きして海雲台の海水浴場の周辺を散策する。海面から目を右に転ずると冬柏(トンベク)公園の緑が美しく眺められた。あのあたりに今年の11月に開かれるアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)の会議場が設営される予定になっているという話だ。その時には釜山は一躍、国際港湾都市として脚光を浴びることになるだろう。

 私が20数年前に釜山を訪れたときの印象は芳しくなかった。まず、山の上まで人家がびっしりと建てられ、狭い土地に数百万の人間を詰め込むその過密ぶりは目を覆うばかりであった。あの頃は地下鉄もなかったが、道路という道路は慢性的に交通渋滞を引き起こし、住民は常時ストレス状態にあった。あるとき私が乗ったタクシーが交通違反をして警官に捕まったが、運転手が何と、警官に「袖の下」を渡すのを目撃した。

 だが、こうしたことは昔のことで、その後、釜山を訪れるたびに街の様相が少しずつ良くなっているのを見て、ホッとしたのだ。

 学会2日目の行事である釜山の歴史遺跡の見学に参加。最初に訪れたのは「東莱別荘」である。ここは日本の植民地時代、釜山第一の金持ちであった迫間房太郎が建てた別荘だ。2階建ての日本式建物、庭園は今はかなり老朽化していた。さて、迫間房太郎が如何なる人物であったかといえば、主に高利貸し、農民の土地を半ば略奪するなどの悪辣な手段で朝鮮人を搾取して財を成したのである。迫間は日本の敗戦直後、いち早く十数隻もの船を仕立てて、貴重品や骨董品など金目のものを満載して日本に逃げ帰った。彼がもち帰った莫大な財宝は、朝鮮人の血と涙の結晶であったといっても過言ではないだろう。

 見学は時間の関係で「臨時首都記念館」まで。肝心の釜山港の港湾施設は一瞥しただけで残念。今ではこの釜山港は、年間1200万個のコンテナを処理し、東アジアでも一、二を争う港になっているのである。

 漫然と市街の景観を眺めているうちに、釜山が歩んできた歴史に想いを馳せた。釜山は韓・日両国の近現代史に深く係った都市である。いち早く多数の日本人が釜山に上陸して来たかと思うと、今度は食えなくなった朝鮮人が釜山港に殺到し、連絡船で日本を目指した。それにしても「連絡船は出ていく」から最近の「帰れ釜山港へ」まで、韓国の歌謡曲は何故か哀愁の響きが強い。また釜山の随所にウェセク(日本色)が色濃く残っている。


  チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『在日の原風景-歴史・文化・人』(明石書店刊)などがある。