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2005/06/24

<随筆>◇身捨つるほどの祖国はありや◇ 崔 碩義 氏

かなり以前のことだが、

 ◇マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 という短歌に接したとき、私は正直いって内心、狼狽した。確か、あれは寺山修司の歌集『空には本』の祖国喪失編の中で詠われていたものであったと記憶する。前半の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」という修辞も、それなりに叙情に充ちた印象的な風景であったが、「身捨つるほどの祖国はありや」の後半の核心部分に、私の心は一瞬、激しく揺さぶられたのである。

 何がそうさせたかについて一言では言い難いが、私は必ずしもニヒリストであったわけではない。それまではむしろ祖国は自分にとって母港のような存在であり、愛国運動に献身することの正当性を疑ったことはなかった。

 ところが、祖国の片割れである北の国で突然、首領に対する個人崇拝が強制され、独裁国家に変質するに従ってがらっと事情は一変。愛する祖国は牙を剥いて在日の私たちに干渉を強めたことを意識した。すると、このような醜悪なものに自分の将来のすべてを委託することに対して疑念が生じた。その後、私はどれだけ苦悩し、逡巡の日々を過ごしたことか。私とて、身を捨てるに値する祖国を持てれば、どんなに幸福であろうかと思う。

 話は変わるが、この「身捨つるほどの祖国はありや」という詩句を思い出すたびに、北に帰国した友人たちの顔が脳裏を掠める。歯科医のU君、社会科学徒のK君、よい医者になって祖国と人民のために献身するんだと、勇躍、帰国船に乗り込んだL君。彼らはみんな純粋で、志の高い優秀な連中だった。なかでも親友のL君とは帰国直前に奥日光に遊び、別れを惜しんだ。

 そのときのことだが、突如、L君は起き上がり、北の方向に向かって「山のかなたの空遠く/幸いすむと人のいう/ああわれ人ととめゆきて/涙さしぐみかえりきぬ/山のかなたのなお遠く/幸いすむと人のいう」と、カール・ブッセの詩を口遊むのには流石に驚ろかされた。この詩は多分にロマンチックで私たちを感傷的な気分にさせた。L君は暗に山のかなたの空遠くに位置する北朝鮮に、幸いがすんでいると堅く信じているのは明らかであった。

 帰国してからの友人たちの、その後の運命について、私はその多くを知らないのでここに記すつもりはない。

 なお、寺山修司の同じ歌集の中に、

 ◇壁へだて棲む韓人に飼われたる犬が寒夜の水をのむ音 という歌が掲載されている。これが歌集の中で韓国人を題材にした唯一の歌で、飼い犬が、夜中に腹がへって水を飲む音を通して、韓人の置かれている当時の状況を想像させる。最後に寺山修司(1935―83年)について簡単に記すと、早熟な少年として前衛短歌で一時、歌壇を席捲した期間があった。その後、演劇と映画のジャンルで鬼才ぶりを発揮したが、惜しくも早く死んだ。


  チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『在日の原風景―歴史・文化・人』(明石書店刊)などがある。