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2005/06/03

<随筆>◇沙也可の成功◇ 産経新聞 黒田 勝弘 ソウル支局長

 ぼくの韓国釣り紀行で、大邱の市内を流れる琴湖江で釣りをした時のことだ。久しぶりの大邱だったので思い出した。大邱で居酒屋をやっている日本人のことだ。この人は横浜で高校の国語教師をしていて”韓国病”にかかり、学校の先生をやめて韓国にやってきたという経歴の持ち主だ。”韓国病”というのはぼくが創った言葉だが、韓国が好きになって韓国にはまってしまうことをいう。ぼくをふくめ周辺にはこんな”韓国病”の患者が多い。

 一杯やってからソウルに帰ろうと電話をしたところ、あいにく社長は所用で店に出ていないと従業員がいう。せっかく思い立ったのに残念と、そのまま引き上げた。ところが数日後、その彼からソウルにやってきたと電話があった。オープンする直前の時以来、三年ぶりの出会いとなった。

 彼は早田博昭氏で四十歳代。店の名前は「さやか(沙也可)」(℡053・427・0141)という。彼の話は苦闘の末の成功談だった。その話に入る前に、店の名前の「さやか」のことである。

 「沙也可」と書けば分かる人は分かる。十六世紀の豊臣秀吉の文禄・慶長の役、韓国でいうところの「壬辰倭乱」の際、朝鮮出兵の日本の武将のなかで朝鮮側に寝返ったのがいて、韓国ではその名前が「沙也可」として残っている。そしてその子孫が一族をなし、慶尚北道の田舎の友鹿洞に住んでいるというのだ。

 早田氏はこの故事にのっとり屋号を「さやか」にした。同じ慶尚北道ということもあるし、日韓ビジネスには格好のネーミングというわけだ。命名に際しては友鹿洞をたずね、子孫に屋号使用の了解まで得たという。

 苦闘の一つの原因は開店後まもなく起きた地下鉄火災事故だった。地下鉄は店の前を通っている。車内火災で二百人近い乗客が犠牲になり地下鉄運行は長期間ストップした。大邱史上最悪の惨事に客足は途絶え、店は廃業寸前になった。

 ところが捨てる神があれば拾う神もある。たまたま地元のテレビ局で店が紹介され、韓国語が達者な早田社長のおしゃべりが人気を博したことから風向きが変わり、一気に黒字に転じたという。彼はこの偶然のテレビ出演を「起死回生」といっているが、おかげで店は今や大邱の人気スポットになっているとか。

 早田社長は成功の秘訣の一つに店の名前を挙げている。「沙也可」は「壬辰倭乱」の故事のなかでも韓国人の心をくすぐる話でうってつけだった。なぜなら、初めての客とは必ず店の名前の由来が話題になるからだ。

 そして徹底した「日本」の売り。韓国のお客さんたちは「日本の店」には「日本」を求めて来るので徹底して「日本」で勝負しなければならないという。そこには日本語でのあいさつ、日本人や日本情報との出会い、日本人との会話も入る。とくに「日本」に飢えている地方都市ではそうだ。「民間交流」に身を挺している早田氏から久しぶりにいい話を聞いた。大邱訪問の折りはぜひたずねてみてください。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。