ここから本文です

2006/01/20

<随筆>◇「韓奨」50年を迎えて◇ 桃山学院大学 徐 龍達 名誉教授

 「借金取りみたいにお金せびりに来るな!!」大声で怒鳴られて、三人の韓国人大学院生は意気消沈して帰路についた。いまを去る四十七、八年前のこと、大阪は天王寺のとある事業家の事務所での出来事だった。

 当時の大学院生とはいえば、よれよれの服装でズボンの裾は擦り切れ、アイロンの筋目はおろか、穴がなければ上等。靴底の半皮がちびって、雨でも降ろうものなら靴下はずぶ濡れになる。自分の本代にもこと欠く院生であったが、それこそ青雲の志をいだいて気構えだけはしっかりしていた。しかし、「借金取り」なんて怒鳴られるとは、夢にも思わないことだった。

 一九七五年三月までの日本育英会はもとより、都道府県の公的奨学金にはすべて「国籍条項」があって外国籍は除外された。私なども大学、大学院の計九年間、一円の公的支援も得られなかった時期のことである。同じ苦しみを後続の韓国人学生にさせたくない、もっと前向きに勉強に励んでほしいと、先見の明ある先輩たちが在日同胞のメッカ・大阪に、在日韓国奨学会を創立したのは一九五六年八月のことだった。

 以来、時間を割いては後輩たちの奨学金集めに「公乞食」(パブリックベッガー)になったのである。二〇〇六年八月にはこの奨学会が創立五十周年を迎える。

 その間、万年与党組織の民団と韓奨がしっくりいかない時期が幾度もあった。四・一九革命の時など、本国に呼応する在日学生を赤色分子だときめつけ、そのデモ参加者がいるとして奨学会への賛助金ストップを働きかけられ存立の危機があった。

 事務所を占拠されたり、「韓奨」看板を叩き割られたこともあった。それらの暴挙に冷静に対処したからこそ、韓奨五十年があるといえる。皮肉にも、当時の反共役員はいま気軽に総連と手を握る。

 こうして、韓国民団とその傘下団体以外では、三十年以上存続している文化団体はないようだから、在日韓国奨学会は稀有の存在であるといえる。その間、日本社会に大学教授、弁護士、公認会計士、医師、一級建築士、芸術家、民団組織人などを送り出し、各階各層で活躍中の人士はおよそ千人に達する。

 これらの人材育成を実現させたのは、これまで長年にわたって財政支援を惜しまなかった賛助会員のご厚意と、育英という知的労働を無償で担当された役員たちの奉仕精神であり感謝にたえない。

 毎年、奨学生に訴えることは、他人である学生に十年二十年も奨学金を送って下さる方々に感謝の気持ちをもち、将来、皆さんに心のゆとりができた時は、周囲の同胞を助ける人になってほしい、ということである。これが「公乞食」としての「韓奨」の基本的な育英方針であるといえよう。この「韓奨」を引き継ぐ者の出現を願いつつ、韓奨五十年で私は引退する。

 最後のしめくくりとして、『在日韓国奨学会五十年史』の編集に取りかかる。韓奨友の会(旧役員、奨学生OB)からの想い出文を募ると共に、五十年史を献本するための一万円カンパを募っている。


  ソ・ヨンダル 1933年韓国釜山生まれ。現在、桃山学院大学名誉教授、在日韓国奨学会理事長、大学教員懇代表。