古い新聞綴りを調べていると陸軍二等兵金百植(キム・ペクシク)に関する記事が偶然目に入った。金百植という名前に思い当たる節はなかったが「骨、異国の病棟で心閉じたまま」という見出しの異様さに引かれて目を通した。
記事を読み進むうちに、彼の恨多き人生が余りにも哀れで、私は思わず絶句し、一掬の涙を零してしまった。2004年3月28日付の朝日新聞の記事は次のようになっている。
陸軍二等兵金原百植は、2000年2月15日の未明、東京都小平市にある国立精神・神経センター武蔵病院にて独り寂しく死んだ。享年75歳。
残されたのは、壺に入った白い骨と現金4万円余、それに朝鮮籍の外国人登録証だけである。
本名は金百植。1944年故郷の京畿道から日本軍に徴兵され、すぐに戦地に送られてそこで精神を病んだ。発病の原因、状況は一切不明。彼の心の時計はその時に止まったまま遂に記憶は戻ることはなかった。
45年5月、戦地から長野の陸軍病院に移送されて以来、千葉の国府台陸軍病院、傷痍軍人武蔵野療養所などを精神障害者として転々とする。その間、家族をはじめ面会に訪れる人は一人もいなかった。
病院に残っているカルテでは断片的なことしか分からず、彼の晩年を知る病院関係者によれば、日本語はいくらか理解できたが、言葉はほとんどしゃべらず、機嫌のよいときだけ母国の歌らしいものを静かに口ずさんでいたという。
55年という気の遠くなる入院生活の間に祖国の解放があり、国土分断、そして激しい朝鮮戦争まであったということを金さんは、果たしてどれだけ知っていたであろうか?
金百植の遺体は結局、小平市役所の手で無縁仏として荼毘に付されたのち、遺骨は国平寺(尹碧巌住職)に預けられた。
後に国平寺の関係者が外国人登録証に載っている本籍地に照会して、金百植の末弟が故郷に住んでいることを突き止めた。しかし、末弟は事情があって遺骨は引き取れないが、戸籍を整理するために死亡証明書を送って欲しいと要請してきた。
以上の記事を読んで感じたことは、金百植氏も日帝による苛酷な犠牲を強いられた一人だという事実である。発病の契機にしても朝鮮人に加えられた堪えられない差別によるショックからきたと考えられる。また傷痍軍人の身分で病院生活を継続している以上、カルテが断片的にしか残っていないというのも不可解だ。
また、日本当局が安易に無縁仏として処理したのも冷酷な対応である。記録を探せば遺族はすぐに分かる筈である。遺骨を速やかに韓国の国元に伝達するとともに、幾ばくかの補償金を支払うべきであろう。
それにしても遺族たちの態度にも不満が残る。すぐにでも日本に飛んで来て、肉親の遺骨を引き取るのが人間としての情ではないか。
金百植氏よ安らかに眠られよ!
チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『黄色い蟹 崔碩義作品集』(新幹社刊)などがある。