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2006/11/24

<随筆>◇クリウン トンチャンへ(懐かしの 同窓会へ)◇                                               韓国ヤクルト共同代表副社長代行 田口 亮一 氏

 男は静かに瞑想にふけっている。ここは福岡空港線出発ロビーの食堂の一隅。8年前のこの食堂、この場所で若かった男(今よりは)は福岡パチンコ旅行の惨敗を反省しながら苦い生ビールを飲んでいた。今日も鶏の唐揚げ(タクチキン)を喰いながら3杯目の生ビールを注文した。

 ナーンカ伊集院静風の書き出しになりましたが、急激に気温が下がってきた11月11日、薄曇りソウルの街から飛び立つこと僅か一時間で、ここもまた、小雨模様の福岡の空港に私は降り立ちました。ウエニャハミョヌン(何故かと云えば)約50年ぶりの小学校の同窓会に出席するためにカッカマッカ(行こうか行くまいか)と迷った末に、やはり懐かしい幼馴染に会いたいとの思い一筋で出掛けてきた訳です。

 私の通っていた小学校は筑豊炭田のど真ん中飯塚市の郊外にあり、当時の炭鉱産業絶好調の景気も反映して街は活気にあふれ、いたるところに石炭の燃えカスを積み上げて出来たピラミッド型のボタ山が見受けられました。久しぶりに見た飯塚の町はボタ山はモードゥ(全部)緑の芝生の小山になり緑の多い綺麗で静かな町に変貌していました。

 これがいわゆる「カワスジモン」と呼ばれた荒くれ者の町、飯塚とはちょっと信じられないくらいの変わりようで、しかし昔のほうがモガモンジ(何となく)飯塚らしかったナァと感じた次第でした。

 さて市内の某ホテルで始まった同窓会には高齢の先生方お2人をお迎えして総勢40名くらい集まりましたが、見る顔見る顔大体平均して2分位ジーッと見つめて「オーッ○○ちゃん」と叫びだすような状況で彼等同士は何年かに一度は集まっていたみたいですが、こちとら何といってもパダコンノ(海を隔てた)のシンセ(身の上)ですから中々連絡が取れなかったようで先にも言いましたが50年ぶりの再会となりました。

 そんな中、立派なヒゲを生やした老紳士が近づいて来て一言「オレガンマネヨ」。「エッ ハングルマルじゃないの…」とびっくりしてじっと顔を見ているうち「アーッ、ヨンギー!」と小学生の頃の彼の姿が見出され、固い握手をかわしながら不覚にもウルル顔になりました。

 「広山竜基」という彼は今から思えば在日の子供で、勉強につけ運動につけ私の良いライバルで、一緒のクラスになったことはないのですが、かなり気になる存在ではあったのです。

 私の長い韓国生活のことを聞いてハングルで話しかけてくれたのもうれしく、その晩は遅くまで飲み明かしました。考えてみますと名前の「竜基」は確かにハングル発音では「ヨンギ」になりますね。

 そんなことで楽しい半日を過ごし、私は和菓子屋のお嬢さんだったチョッサラン(初恋)の「和子ちゃん」が出席していなかったので一抹の寂しさはあったものの、「ヨンギ」との再会で実に心豊かになり、日本では小・中・高生の自殺騒ぎで大荒れの昨今、「幼馴染って良いもんだナァ、生きてるッて事は素晴らしい事なんだナァ」とつくづく思いながら翌日ソウルに帰ってきました。2年後の11月第2土曜日、必ずまた皆でマンナジャ(会おう)との固い約束をしっかりと胸に抱いて。 


  たぐち・りょういち 1943年満州国生まれ。東京都立大学人文科学部卒。69年ヤクルト入社、71年韓国ヤクルト出向。94年から同社共同代表副社長代行。