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2006/08/18

<随筆>◇南山の石仏に魅せられて◇ 崔 碩義 氏

 慶州観光をする場合、少し遠いが東海岸の感恩寺址と文武大王の海中墓は是非見ておく価値がある。

 その日、友人とドライブ気分で甘浦街道を走ると、いたるところで白鷺とリスに出会った。やがて現れた感恩寺址の二基の三層石塔は、周囲の風景とよく溶け合って絵のように美しい。この三層石塔こそ、統一新羅時代を象徴する逸品といわれるだけあって、雄渾堅固で重量感にあふれていた。

 感恩寺址から海岸までは近い。三国統一という偉業を成しとげた文武大王の海中墓は、ざっと二、三百㍍の沖合にあって、一見、何の変哲もない普通の岩のように見えた。大王は次のように遺言した。「私が死ねば華麗な陵墓を造らず、火葬にしたのち東海の海中の岩に葬れ。私の魂は龍となって国を護るだろう」

 このことからも当時、倭冦の侵攻が頻々とあったことが想像される。

 海中墓を見たあと、今度は吐含山の麓から一気に海抜五六五㍍を駆け上がって石窟庵の前に出る。この石窟庵は、千年以上ものあいだ人目に触れることなく、現代まで奇跡的に存在し続けたのである。私は本尊の釈迦如来像の豊満な容姿と均整のとれた優美さに圧倒された。高さ約三・四㍍、素材は花崗岩、足を結跏趺坐に組み、髪は縲髪。理想的な人間の顔とは、おそらく、このような面影を指すのであろうと深い感動が体内に伝わった。

 翌日、南山に石仏を見に行く。途中で雁鴨池、瞻星台、鮑石亭などにも立ち寄る。ここで鮑石亭などにまつわる歴史的な悲劇について触れよう。鮑石亭は、中国の王羲之が蘭亭で曲水の宴を催したことに因んで造られた楕円形をした風流な遊興施設である。新羅の国運がすでに傾いた景哀王のときのことである。敵の甄萓率いる騎馬軍団の襲撃に気が付かず、鮑石亭では、景哀王と王臣たちが優雅な遊びを繰り広げていた。やがて敵の騎馬軍団がこの場に突入するや、あたりは忽ち騒然、酒林は吹っ飛び、貴族、宮女たちはただ、慌てふためき逃げまどう。捕まった景哀王は自刃させられ、王妃や宮女たちはみな敵兵に凌辱される。この惨劇のあった八年後、新羅は完全に滅亡する。

 さて、私はこの日、南山の拝里三尊石仏、塔谷磨崖彫像群などの石仏群を訪れ、深く感銘した。自然の岩肌に直接、鑿を入れるという作業がこれほど迫力があるものだとは!

 新羅の石仏、石塔はじつに簡潔性に富み、ダイナミックである。石仏は沈黙して言葉を発しないが、岩盤に一旦刻んで生命を吹き込んで置けば、後世にずっと残り続ける。当時、南山には石仏を黙々と朝から晩まで刻んでいた敬虔な石工がいたのであろう。私は今まで、古墳から発掘される豪華絢爛な宮廷生活を偲ぶ金冠や耳飾り、首飾り、指輪などに目が向きがちだったが、今回の旅を通じて、石仏や石塔の素晴らしさを改めて知ることができて、とても良かったと思っている。


  チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『黄色い蟹 崔碩義作品集』(新幹社刊)などがある。