その瞬間、私は固唾を飲んで、黄色い液体を見つめていた。朝鮮総連のリノリウムばりの床に、みるみる、世界地図にも似た模様が広がっていく。それは沢庵の汁だったのだ。5年前の春、父が急逝して、一週間目の事だった。父方の長姉は、60年代に渡朝している。その叔母に、父が残していった、物資を送ろうとしていた矢先のできことだ。
ダンボール箱は9つ。赤子の産着に、日用品、下着に衣類。さらに、重い一斗缶が7つ。その一つが倒れて、私はやっと中身を知ったのだ。
長男だった父は、6人弟妹の面倒を見ながら、トラックの運転手から身をおこし、その後、事業家として財を成した。その父が、死の直前、孫娘と私に、ある曲をピアノで連弾してくれという。訳もわからないまま、娘と私は、何度も「ドナウ河のさざ波」を弾いたのだが、父の死後、その曲が、北に渡った伯母を見送る際、新潟の港で流れていた曲と知った。
韓国籍の叔母は、朝鮮籍の教師と恋愛して渡朝した。長男だった父は、懸命に働き、弟妹6人の学費を捻出しつつ、伯母に仕送りしていた。また、北からは、頻繁に赤と青の縁取りの国際便が届いた。
「ひろし君、あいたいです。あいませう」といった日本語に、いつしかハングル文字が多く混じりだし、それに呼応するかのように、日本語はたどたどしくなっていった。「カレー、たべたいです」時に藁半紙の文字は、涙で滲んでいた。父の蒔絵の手文庫に収まった手紙からは、異国の匂いがした。姉から手紙の届いた日は、父は深酒をした。
その父が亡くなった朝、叔母から国際電話が入った。「アイゴ、なんだか、おかしな夢を見たのよ」声は芙蓉の花のように可憐だった。その後は、号泣で声になっていなかった。
二世の伯母が、父に所望していた食料品は、雛あられに、ポン菓子、カレーのルー。それに、一斗缶7箱分の沢庵なのだ。“在日”という存在の矛盾に、葬式で堪えていた、涙が溢れ、声を出して泣き放った。ドナウ河のさざ波が、耳の奥で木霊する。
「お父さん、死んでやっと、北へ、南へ、自由に行き来できるね」嗚咽を見兼ねて、職員の人が、ハンカチの代わりにタオルを貸してくれた。
人生というドラマは、愛と憎しみの連鎖だ。また、生きていくことは生臭いことだ。だが、最後は、往々にして和解が主軸のテーマとなり、カタルシスがあるのではないか。
時々、父の命日に娘と「ドナウ河のさざ波」を弾く。拙い演奏に心から祈りを込める。この曲は途中から、長調に転調する。重々しい曲が、かろやかに、飛翔して、空に立ち昇っていくような気がする。
仏壇に手向ける線香の煙と、ドナウ河のさざ波。私には、この両者が境界線を越えたところで、一つに溶け合っているように思えてならない。天界から見れば、地球のどこにも、境界線はないのだから。
キン・マスミ 京都生まれ。ノートルダム女子大学卒業。第12回大阪女性文芸賞、第32回文藝賞優秀作受賞。