「ケンちゃん!! ケンちゃんでないんけの?」甲高い声の方に顔を向けると、大きな旅行カバンを引きずった初老の女性が雑踏の中を駆け寄ってきた。「T先生?」「ほうや。やっぱりケンちゃんやろ」懐かしい福井訛りはまさしくT先生。半世紀ぶりにお会いした恩師は70代も半ばを越えているというのに、軽い足取りで満面に笑みをたたえて現れた。隣には恩師の妹のDさんが微笑んでいた。ここはソウル駅の構内で、今しも釜山から韓国の新幹線、KTXに乗ってソウル入りした恩師姉妹との感動の再会場面である。
以前、このコラムでもご披露したが、姉妹のお父さんは昔、総督府に勤務されており、お二人とも朝鮮(当時)生まれ。お姉さんは青春時代を新義州とソウルで過ごしており、毎年、家族で花見を楽しんだ総督府裏の桜が恋しくて妹さんを引き連れて飛んで来たのだった。T先生は私の小学校1年の時の担任で、ふっくらとした優しい面影は遠い昔の大切な想い出の一つであった。昨晩は「初恋の人との再会」を前にしてなかなか寝つかれなかったが、目の前のマドンナはさすがに年輪を重ねながらも、元気一杯の素敵な女性であった。
翌朝、勇んで元総督府があった景福宮にダッシュした。実は昨年末に妹君から「桜の木はまだあるかしら?」と聞かれて下見をしたが見つからず、今回は一縷の望みを持って、当時、桜が乱れ咲いたという、慶会楼が浮かぶ湖水の畔を探し回ったがやはり見あたらなかった。日本時代の象徴のような存在だっただけに、総督府の建物と一緒に成敗(?)されたようだ。
「仕方ないわ。でもスッキリした」。落胆の色を見せながらもサッパリ気性の先生は直ぐに気を取り直して「オージューリの女学校があった所へ案内して」「オージューリ?」地図を広げて指差したところは「往十里(ワンシムニ)」。先生はここにあった「京城第三高女」に新義州から転校して敗戦で引き上げるまでの学生時代を過ごしていた。乗り合わせたタクシーの老運転手が昔のことをよく知っていて助かった。忠武路を通りかかって「ここは路電で通学していた本町通りやわ」「半島ホテルはどうなった?」「今泊まっているロッテホテルですよ」「ウワー、懐かしい」。お目当ての往十里は商店街と車の洪水で溢れていた。
「ここがオージューリ?昔は畑と山だけやったのに」母校があったとおぼしき場所はすっかり変わっていたが、遠い青春時代を想い起こすように、先生はいつまでも感慨深げに眺め入っていた。「当時はモノがなくて苦労したけど、でも友達もたくさんいて本当に楽しかったわー。もう一度ここに来れるとは夢にも思わんかった。ケンちゃん、おおきに」。先生の眼鏡の奥が微かに潤んでいるように見えた。総督府の花見は叶わなかったが、半世紀ぶりに少しは恩返しができたような気がして嬉しかった。
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83―87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事。04年4月、韓国双日に社名変更。