ここから本文です

2006/03/03

<随筆>◇最近のお悔やみ録◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 韓国演歌の名曲のひとつ「ホンドよ泣くな」の歌手・金永春先生が亡くなった。歌手としてはそれほど名前は知られていないが、歌の方の知名度はすこぶる高い。「ホンドヤ、ウルジマラ、オッパガ、イッタ…」の名文句で日本統治時代末期に一世を風靡した。夜の世界の「ホンド」という女の名前だから漢字では「紅桃」かな。

 ぼくの好きな韓国演歌のひとつであり、訃報に接したその晩、行きつけのお店の女性軍とカラオケボックス(ノレバン)に繰り出し、追悼した。この時の女性軍は歌の性格から当然“元アガシ”たちだ。今のアガシ(娘あるいは若い女性の意)ではあの歌の情緒は分らん。それに歌えるアガシもいない。

 そういえばこのところ知っている人の訃報が多い。在日韓国人の金敬得弁護士もそうだ。まだ五十代でぼくより若かったからひときわさびしい。あの関西ナマリの早口韓国語が懐かしく思い出される。在日第一号の日本弁護士ということでガンバリ過ぎたか。関西風にユーモアたっぷりの余裕あるライフスタイルを期待したのだが。

 在米のコンテンポラリー・アーティスト白南準の死は韓国では大きなニュースになった。ビデオアートを創造した現代美術(?)の世界的奇才で、ぼくのお気に入り作家だった。生前、一度だけ会ったことがある。東大卒で夫人は日本人だった。韓国を代表する国際人のひとりだった。それより何より、彼の作品は意外性に富んでいて実に楽しかった。だからぼくは好きだった。

 政界やスポーツ界の大物だった閔寛植氏も亡くなった。戦前の京大卒でぼくの大先輩ということもあったが、つい年末に友人の趙成寛・週刊朝鮮記者が彼に関する本を書いたということで、三人一緒に夕食を共にしたばかりだった。九十歳に近かったのに相変わらず元気一杯で、ワインをがぶ飲みしながら毒舌を吐いておられた。前夜まで元気で翌朝、静かに息を引き取っておられたという。

 それから日本人では須之部量三・元駐韓日本大使も亡くなられた。ぼくはソウル駐在記者としては一九八〇年九月がスタートだったが、当時の日本大使で教わることが多かった。そのひとつが「黒田クンねえ、韓国に入れ込むのはいいが二本とも足を突っ込んではダメだよ、一本はいつも外に出していなさいよ」という話だ。韓国あるいは韓国人の“多情さ”を念頭においた日本、日本人へのアドバイスだったか。

 もうひとり記者仲間のO君。ぼくと同年代で同じく一九七〇年代にソウルに語学留学した。しかしその後、いろんなことがあって、最後は日本の奥さんと別れて韓国女性と結婚し、記者もやめて韓国でひっそり暮らしていた。念願のソウル特派員の機会が無かったことが彼にとっては“ハン(恨)”だったろう。

 詳細は省くが、彼も韓国、韓国人との戦い(?)で戦死(!)したのだ。須之部さんの言葉をあらためてかみしめているところだ。年を取ると健康や人の死が気になるのです。合掌。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。