風雲急を告げる二十世紀初頭、日本の露骨な朝鮮侵略をめぐって、同じアメリカ人でもこれに断固反対する立場に立って行動したのが、H・B・ハルバート(1863~1949)であったとすれば、反対に、積極的に日本の侵略行為に加担したのが、D・W・スティーブンズ(1851~1908)であったといえるだろう。今回は、この二人の生き方が余りにも対照的であったことに注目してみたい。
まず、ハルバートについていえば、韓末の1886年、朝鮮で最初の近代的教育機関である育英公院の英語教師としてこの国にやって来たが、やがて高宗(コジョン)に信頼されその顧問をつとめた。1907年6月、オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議に際し、李儁(イジュン)ら三名の代表とともに韓国の主権回復に奔走したことでその名が知られている。日本政府はこの密使派遣に怒って、国王の高宗を強制的に退位させ、ハルバートも国外に追放される。彼は本国に帰ってからも日本の侵略を非難し、国際世論に訴えるなどの活動を継続したといわれる。日本の敗戦後の1949年7月、ハルバートは八十七歳という高齢で再び、韓国の地を踏んだが、その翌月、惜しくもソウルの衛生病院で死亡した。
何年か前に私は、ソウルの麻浦区にある「外国人墓地」を訪ねたことがあるが、そのときたまたま、ハルバートの墓に刻まれている次のような銘文を発見し、とても感動したことを憶えている。「私はウェストミンスター寺院(英国の歴代国王をはじめ高位顕官の墓が多いロンドンにある寺院)に葬られるよりも、この韓国の地に埋められることを望む」
話は変わるが、今年はハーグ密使事件の100周年に当たり、ソウルとハーグで盛大な記念式典があったと聞いている。なお、今まで李儁がハーグで悲憤のあまり割腹自殺したと喧伝されて来たが、本当は病死であったと考えるのが自然であろう。
次にスティーブンズが如何なる人物であったかについて見てみよう。スティーブンズは、日本の外務省のために二十八年間も献身的に働き、勲二等旭日重光章までもらったアメリカ人である。とくに大韓帝国最後の外交顧問という職責にありながら、統監伊藤博文の走狗になり、むしろ韓国に災いをもたらしたといってもよい。1908年3月、彼が休暇で帰米した折、新聞紙上で日本の対韓政策を称賛した上で「韓国民は愚昧な民族だから日本に統治を任せるべきだ」と主張した。これに憤激した在米韓国人の田明雲(チョン・ミョンウン)、張仁煥(チャン・インファン)の両名が、スティーブンズをサンフランシスコのオークランド駅で襲い殺害した。この事件が世界に報道されるや、各方面に少なからない衝撃を与えたことはいうまでもない。
更にその一年後の1909年10月、伊藤博文がハルビン駅頭で安重根義士によって射殺される運命を辿ったのもあながち偶然なことではない。
チェ・ソギ 作家。在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『韓国歴史紀行』(影書房)などがある。