教保文庫ビルの裏通りは、昔ながらの面影を残しているレストランが軒を連ねていて風情がある。すでに日本人にも知られている「ピマッコル」の近くのくねくねした細い路地を通り抜けようとして、その店を発見した。こんなところに日本式の居酒屋が と中を覗いてみると、小ぎれいでこじんまりとした店は日本人好みで悪くない。
ちょうど、客が途絶えた時間なのか、厨房ではヒゲを蓄えた野武士風情の板前さんが仕込みの最中だった。華麗な太刀捌き、いや包丁捌きにこれは只者ではないことを直感した。「おぬし出来るな!」初めて武蔵に会った時の小次郎のように私は緊張して身構えた。一瞬の静寂の後、「いらっしゃーい」。武蔵の顔が人懐っこいヒゲおじさんに変身していた。安心した小次郎も「お邪魔しまーす」とカウンター近くの席に腰掛けた。
厨房の野武士は小料理屋「伊万里」の社長兼料理長のJさん(日本人)である。「本日のおすすめ品」を見ながら、好物の「しめ鯖」を注文した。酒は私が青春時代を過ごした広島の地酒「賀茂鶴」というのが嬉しい。アンジュ(つきだし)の「味噌ピー」も中々いける。ピーナッツに味噌を絡めて何度も炒ったものだが、素朴な味が酒のつまみに最高。
「この辺では日本の居酒屋は珍しいですね?」
「うちは居酒屋ではありません。小料理屋と呼んで欲しいですね」。
Jさんがやや不満そうに顔を上げた。どこが違うのかな?居酒屋も悪くないと思うけど。
「食材はできるだけ旬のものを使っており、冷凍食品は使いません」
「日本酒も生きているので長期間のキープはお勧めしません」。この辺のこだわりが居酒屋と小料理屋の違いかな?
「それにうちは赤提灯を出していないでしょう」。なるほど、分かりやすい。
「でも韓国では中々いい食材が見つからず苦労してます。韓国自慢の韓牛も霜降りのいいのが少ない。安くないのに」。そうです。意外ですが韓国の牛肉は世界で一番高いのです。
味噌ピーで一杯やりながら「これは美味しいですね。人気あるでしょう?」
「それが、韓国人はアンジュは単なるサービス品との感覚なのかほとんど箸をつけない。当初は他にもいろいろ手をかけて作って見たんだが 」。そういえば、当地の人はアンジュごときで腹を膨らませては沽券にかかわる、と思っているのかあまり相手にしない。
「お客さんのように、本当に味の分かる人が私の料理をじっくり味わって頂くと嬉しいのですが」。お世辞とはいえ憎いことを言う。でもやけに自信たっぷりだが、私も味にはちょっとうるさい男ですよ。試食のつもりでゆっくりと本命の「しめ鯖」を口に含んで驚いた。そして静かに箸を置いて平伏した。「参りました!」
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83-87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事。04年4月、韓国双日に社名変更。