ここから本文です

2007/08/10

<随筆>◇百済観音像を見る◇ 崔 碩義 氏

 昨年に続いて今年も奈良を訪れ、今度は法隆寺に足を伸ばした。「百済観音像」をもう一度、目に焼き付けて置きたいと思ったからだ。私は以前、東京国立博物館で開催された特別展で、百済観音像を拝し、その異様な美しさに内心狼狽しながらも陶酔に浸ったことがある。

 周知のように法隆寺は、七世紀の初め聖徳太子によって建立された世界最古の木造建築物である。その聖徳太子が定めたという「十七条憲法」の第一条に当たる「和を以て貴しと為す」という文言にも注目したい。これは、現代日本の憲法改悪の動きと関連して考えても示唆に富む言葉といえるだろう。

 法隆寺のある斑鳩(いかるが)の里は、晴天にめぐまれ、寺門を潜ると金堂と五重塔が目の前に聳えていた。境内と回廊は手入れが行き届き、平日だというのに参詣客は一向に途切れないのは流石だ。金堂の見学は後回しにして、日本の仏教美術の宝庫といわれる大宝蔵院にある百済観音堂に直行。私はここで、千数百年もの時空を超えて存在し続ける百済観音像と再会する。そして、お姿の余りの神々しさに、忽ち畏敬の念に打たれて合掌。まさに神韻渺茫(びょうぼう)というべきか。その気品のある顔面、長身で繊細な体躯、天衣の流れるような線の美しさ。胸のあたりと指先には微かに官能が漂う。左手に持っている水瓶は何に使うのだろうか。私はさまざまな角度から百済観音像を凝視して飽きることがなかった。

 昔から百済観音像ほど人を引き付け、魅了してきた仏像も珍しい。だから日本の高名な文人たちは、競ってその神秘的な美しさを賛美し、最高の言葉でこれを表現するのに心血を注いできたのである。

 ただ、この百済観音像は多くの謎に包まれているのも事実である。堂内の掲示板にも「誰によって、どこで作られ、どこに置かれていたものかは定かではない。今は法隆寺の客仏となっているが、流浪の仏さまであった」と記されている。法隆寺の寺伝にも「百済や天竺など異朝から渡来した」とある。ともあれ1998年に、この観音さまにとって永年の悲願であった安住の場所、百済観音堂が新たに完成したことは誠に喜ばしいといわねばならない。

 ところで、史料が少ないという事情もあって、何とも不可解な説も罷り通る。例えば、百済観音像は異国から伝来したのではなく、日本で作られたものであると一部の研究者は執拗に主張する。これは仏像の材質である樟が朝鮮半島には自生しないというのを論拠にしている。しかし最近、韓国で樟の木棺が発掘されたことが大々的に報道された。

 私は思うに、それがどこから来て、どこにあったかを問題にするよりも、これまでの伝承をあるがままに受納し、今後はむしろ、人類全体の貴重な文化遺産として共有し、手厚く保護して行くという観点に立つことが重要ではなかろうか。


  チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『黄色い蟹 崔碩義作品集』(新幹社刊)などがある。