人並みの結婚生活に入って翌年に娘が生まれ、次いで息子と娘など子福の一家となった。娘が幼稚園にあがるころ、記念になればと庭に植えた乙女椿の苗木が、子供の成長につれて、それに負けじと大きくなった。孫にも恵まれて気がついてみると、乙女椿の子が親木にそって1㍍50㌢にも達している。椿は毎年の早春、ピンク・うす紅色の重弁の花をつけて楽しませてくれる。
子供たちの自立=結婚と同様に、この子椿も自立させようと考えた。植木屋さんに頼むと愛情不足になるだろうと、半日がかりで一本ずつ掘りおこして移植することにした。ピンクと赤色の二本を選び、庭の隅に堆積した腐葉土をバケツに三杯ずつ、子椿の根元につぎこんだ。一日なか休みをとって体調を整え、三日目に移植を終えた。場所は応接間の南側、お庭の入り口で左右の門柱になろうか。来春にはきっと、その自立した椿が二色の美しさをたたえてくれるにちがいない。
新春早々、同じ町内元自治会長の石田隆男さん(椿専門家)から、珍種の「朝鮮椿」を一鉢贈られた。美しい品位をたたえた真紅の花も散り、その若葉も深みどりに転じた昨今である。この朝鮮椿の原産地をきいてびっくりした。韓朝鮮ではなく日本産だという。なぜなのか、石田さんの説明が振っている。朝鮮通信使の江戸時代以前から「唐物」「唐子」は本来は「韓物」「韓子」を意味し、ただものではない良質のもの、つまり、日本産の椿に比べて一段と銀赤色がかった上質に対する畏敬の念を表現した呼称だという。
話が弾んで椿の王様「蔚山椿」(五色八重散椿)に及んだ。それは一本の樹に純白、紅、淡紅色、紅白絞り、淡紅色白覆輪の花を付け、散る時は桜のように花びらを散らす椿だという。1592年、豊臣秀吉による朝鮮侵略(壬辰倭乱、文禄の役)のとき、加藤清正が慶尚南道の蔚山城にあった「五色椿」を根切りして盗んできた花樹が、京都市北区北野の地蔵院に生きているという。
その樹齢四百年以上という老木のもつ生命力を表現した絵画「名樹散椿」(二曲一双の重要文化財、1929年作)が残されている。巨匠の日本画〔10〕『速水御舟』(学習研究社、2004年復刻版)に名画が掲載された。美術評論家の吉田春章は次のように作品を解説している。
画家速水御舟が生涯追求した重要なテーマは、絵画表現の追求それ自体にあったと同時に、あらゆる生命現象への畏敬の念であった。その画業を通観すると、とても一人の作家の手になったとは思えないような画風の多様な変遷であり、各年代ともその年齢でなければ咲かすことのできない大花を咲かせていた。二曲一双の金地屏風に描かれた大作「名樹散椿」は、根元的な日本美を現代に再構築した斬新な構成美であり、畏敬の表現でもあったと。
石田さんは、秀吉時代に奪ってきた名樹・蔚山椿を、韓日友好のため蔚山城に戻したい夢を追求している。
ソ・ヨンダル 1933年韓国釜山市生まれ。桃山学院大名誉教授、啓明大特任教授、在日韓国奨学会理事長、「大学教員懇」代表、「国際韓朝研」名誉会長など。