ここから本文です

2007/04/27

<随筆>◇ノーネクタイの話◇ 崔 碩義 氏

 洋服にネクタイを締めるというのが、現代人の身だしなみであり、社会的に公認された服装だといえるだろう。だから、ノーネクタイ姿は一般的にいって非常識であり、歓迎されないスタイルとされる。

 私は三十数年まえに、思い切ってサラリーマン生活を清算し、これを機にネクタイ生活から解放された。いわゆる自由人になったのである。その時、これからは窮屈なネクタイを一々締めなくても、誰からも文句を言われないと思うとホッとした。以来、私は一見、だらしのないノーネクタイ生活の快適さに満足しているという訳である。

 ノーネクタイといっても、外出するときにはそれなりの服装をしなければ格好がつかない。そういう時は詰襟シャツを着るか、適当にそこいらにあるものの中から最も気に入った衣服を引っかけて出掛けるようにしている。

 断っておくが私の知っている男性の中にもモッチェンイ(女性にもてるためにお洒落をする伊達者)が結構いる。彼らは決まって手間暇かけておめかしをした上で外出する。これは古今東西みな同じであろう。

 ところで、わが家の洋服タンスには今でも五十数本もの古いネクタイがぶら下がっている。その中には、女性から贈られたものもあれば、思い出深いかつての愛用品もある。だから未練たらしく捨てもせず所持してきたのであろう。そのうちに奇麗さっぱり処分するつもりでいる。

 考えてみれば、こうした古ネクタイほど使い道のないものも珍しい。まさか気でも狂わない限り、これを他人の首を締めるための凶器にしようとは考えないだろう。せいぜい古新聞を括るときのヒモ代わりに利用できるぐらいだ。


 ここで無駄話を一つ交える。北朝鮮の人民を満足に食べさせられないあの首領様も、もっぱらノーネクタイ党であることに気付くだろう。金正日氏がどんな服装をしようとそれは勝手だが、いつも得々とジャンパー姿をしているのは私には悪趣味で見っともなく映る。せめて外国の賓客と会う公式の席上ぐらいは洋服にネクタイを締めた方が礼儀にかなうと思うのだが。

 今度は、最近の私がいかに物忘れが酷いかについて話そう。つい先日のことだが、知人の息子の結婚式に出席するために、久しぶりにネクタイを締める必要が生じた。ところが、ネクタイの結び方を完全に忘却していて、何回試みてもうまく結べないので大いに慌てた。その場は何とか他人の手を借りて事なきを得たが、自分のボケぶりに愕然とした。

 最近、川崎に住む昔の同僚であるRさんが認知症になったことを知ってショックを受けた。私とて何時なんどき認知症に襲われないとも限らない。それはほんの紙一重の差だ。
ネクタイの話のオチが湿っぽくなって恐縮である。「身老不心老」という格言があるが、体は老いても心はいつも若々しくありたい。


  チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『黄色い蟹 崔碩義作品集』(新幹社刊)などがある。