韓国文化院も来年30周年を迎える。前身ともいえる文化公報部傘下の海外公報官室時代は、日比谷の三信ビルや赤坂のニュージャパンホテルのラテンクォーターのあたりにあったと鄭鎭永・第7代院長が教えてくれたことがあった。
その後、1979年に韓国文化院としてサンシャイン60ビルの5階に開院した。エレベーターで5階にあがると目の前に韓国文化院の入り口があり、階段であがると、高さが2メートルほどある「華城行幸図」が何枚も壁にはめ込まれていた。1フロアの半分を占め、サランバン、セミナー室、LL教室、映写室、ギャラリー・ホール、暗室、事務室、ラウンジ、回廊と図書室があった。アジア大会、ソウル・オリンピック大会、大田エキスポなどさまざまなイベントと関わりながら80年代、90年代を多くの人とともに、ここで過ごした。東京周辺で行われるたいていの韓国関連の文化行事を見たり、参加できたことはほんとうに大きな財産である。
考えてみると、日本人職員は長年指導して下さった大国未津子さんを筆頭に安岡明子さん、小島一成先生、吉田美智枝さん とそれほど多くはないが、院長を中心に家族的な雰囲気の中で、院外の多くの方々にも助けられて楽しく仕事を続けて来られた。韓国文化院に入った当初、韓国語もできず、韓国文化についてほとんど知識もなかった私であるがソウル・オリンピック前には、文化部長官にもなられた李御寧先生の監修する本を三木先生と佐野さんと書かせて頂いたり、何冊もの本を出すたびに、勉強会や企画会議などで、こんな本を出そうと話し合ったことは楽しい思い出である。
公共交通機関がバスしかない陸の孤島いわれながら、地下鉄が2つ通るということで、現在の麻布に移転したのは、オウムによるサリン事件があったときであった。韓国も余暇時代であるGNP一万㌦時代に入り、韓流、ミレニアム(新千年紀)、韓日共催ワールドカップサッカー大会、日韓交流年、日韓友情年と、イベント続きの毎日となり、いまや日韓の往来は500万人時代といわれ、韓国から来る観光客が日本の数字を上回るというソウル五輪の時代には考えられない現象も起きている。
海外の韓国文化院も、東京を皮切りに、パリ、LA、NYと長らく世界に4カ所だけだったのが、大阪をはじめ12カ所に新設され、さらに拡大傾向にある。韓国にある本部も、文化公報部、文化部、文化体育部、文化観光部から新政権下で、文化体育観光部となり、国政公報處海外文化公報院などがまた統合された。
来夏過ぎには四谷三丁目に、念願の自社ビルが完成し、新宿時代が始まる。日本における韓国文化のネットワークの総合発信基地として、また、「文化を通じて、幸せになり、生活の質を高める」お手伝いができればと思う。
はらだ・みか 東京都出身。韓国文化紹介機関である韓国文化院に80年代から勤務。現在、交流支援チーム長。日韓ミーハーの会、NPO日本ガルテン協会会員。