朝鮮近代史、なかんずく日本帝国主義の朝鮮侵略の歴史を学ぶ過程で、最も私が感銘を受けたのは「是日也放声大哭」という言葉である。そして毎年11月ともなると、決まったように張志淵(チャン・ジヨン)のこの強烈な一文が頭を寄切る。この漢字の短い言葉の行間からは、大声で泣き叫びながら何事かを強く訴えている悲痛な光景が思い浮かぶのである。同時に「是日也」を強調することによって「この日のことを決して忘れまいぞ」という強靭な意志といったものが伝わってくる。
「是日也放声大哭」(声を放って大いに慟哭するのはこの日をおいてない)とでも訳せるこの表現は、言うまでもなく『皇城新聞』1905年11月20日号に掲載された主筆張志淵の論説のタイトルである。張志淵は、大韓帝国が外交権を剥奪され、日本の保護国に転落するという屈辱的な乙巳条約(ウルサチョヤク・第二次日韓協約)の締結に徹底的に反対する論陣を張った。
彼はその論説の中で、日本の朝鮮侵略が如何に不法で、日本軍の銃剣が林立している状況のもとで調印を強制されたことを暴露し、これを全国民に告げたのである。同時に売国条約に賛成した李完用、李根沢、李址鎔、朴斉純、権重顕らの五大臣を「犬豚に劣る連中だ」と痛烈に批判した。以来、彼らは朝鮮で最も不名誉とされる「親日派」の元祖になったのは周知の通りだ。
張志淵の論説は、幾分激昂した文調ではあるが、憂国の情に満ち、民族の精気が溢れた格調高いものであった。この乙巳条約が結ばれたことによって、朝鮮は日本の植民地に転落し、以後、国民は塗炭の苦しみに喘いだのは歴史が証明する。また、一部の同胞はやむなく海外に流失して流浪の民となったのだから、「在日」もこれに決して無関係とは言えない。
今どき、百年も前の史実を引っ張り出すとは執念深いと言うかも知れないが、そう簡単に忘れてはならない重要な意味を今でも持っている。幸い、1945年、日本の敗戦によって朝鮮は植民地から解放されたが、それは必ずしも自力で勝ち取ったものではなく、また、祖国の統一だって未だに達成されていないという現実を直視する必要があるだろう。なお、日本の一部の政治家は今でも「朝鮮の統治は合法的であった」とか「創氏改名は朝鮮人の自発的な意志によるものだ」といった妄言を平気で繰り返しているが、彼らの歴史認識は全く醜悪で警戒する必要がある。
参考のために『梅泉野録』の著者である黄?(ファン・ヒョン)についても言及しよう。彼は、張志淵と同じ系譜に属する人物であるが、亡国に際して敢えて自決する道を選んだ。黄?は、その時次のような「絶命詩」を遺した。
鳥獣哀鳴海岳? 槿花世界已沈淪
秋燈掩巻懐千古 難作人間識字人
――鳥獣は悲しく鳴き海や山も悲しみの余り顔をしかめる、むくげの花咲くこの国はもはや滅んでしまった、秋の夜書物を措いて千古の歴史をかえりみると、人の世で知識人として生きることは本当に難しいものだ――
チェ・ソギ 作家。在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『韓国歴史紀行』(影書房)などがある。