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2008/09/19

<随筆>◇我が死生観◇ 崔 碩義 氏

 人間の生と死といった根源的な問題を議論するつもりはないが、たまには、これに類する話も悪くないだろう。私はここ数ヶ月の間に、五人もの友人、知人の死を見送った。中には私よりも年長の人もいたが、どちらかというと年下の方が多いのに衝撃を受けた。まだ若くて人生これからだというときに他界した人はさぞ無念であっただろう。死は必ずしも年の順に巡ってくるとは限らない。昔から「人間の寿命は天にあり」という言葉が示すように、いつ何時、例えば雷に当たって落命するといった不慮の事故に遭う場合もあれば、ガンのような病魔に取り付かれて昇天する場合もある。人間の命はこのように儚(はかな)いということを痛感するのである。

 私は告別式の場では、できるだけ棺に収められた故人のデスマスクを拝して、その尊厳な姿に敬意を表することにしている。大抵のデスマスクは、白っぽく、哲人のように見えるのが印象的であった。続いて今度は、私の死ぬ番も近いからこの辺りで、ぼつぼつ人生の店じまいの準備をしなければという思いに強く捉らわれる。そうはいっても、自分の死に様を具体的に予想することはとても出来ない相談だ。

 そこで、ふん!死ぬ時が来れば、その時にはこちらから進んで死んでやるから、何も今からじたばたすることもあるまいと、横柄に構える。その挙句、一日でも一時間でも長く生きてやろうじゃないかと、まことに浅ましい考えに陥る始末。ああ、これもまた我が人生の煩悩というものであろうか? 

 私としては今まで無神論者として生きてきたから、今更、神様にすがることもできないし、だからといって宗教に救いを求めるのも潔しとしない。従って私のような凡人が、安心立命の境地を夢みるのはとうてい無理というものであろう。

 ところで、私は文学少年であった頃、自殺した文学者に異常な関心があって、自死することが凄く格好良く、とても勇気ある自律的な行動に見えてならなかった。人間は少なくとも生まれ方を選択することは出来ないが、死に方だけは選ぶ権利があるという理屈に基づく。私も一時、それにあやかりたいと真剣に思ったことがあるが、結局、決行する機会を失った。それにまた、中年になって今度は、放浪詩人金サッカや俳人の山頭火が野垂れ死にしたことに一種の魅力を感じるようになった。振り返って見ると、自分の生き様は何とも幼稚で恥ずかしく、赤面の至りというしかない。

 「人生いかに生きるべきか」は永遠のテーマだ。私としては、あとどれだけ生きられるか分からないが、これからは開き直って生きるだけだ。そして、やがて訪れるであろう自分の終末をごく自然に受け止め、遺体はすぐに焼却して大自然に戻し、また、葬式などの儀式も一切無用にして、静かにあの世に旅立ちたいと願っている。最後に私の好きな陶淵明の漢詩を次に掲げよう。 

 有生必有死 早終非命促 千秋万歳後 誰知榮与辱


  チェ・ソギ 作家。在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『韓国歴史紀行』(影書房)などがある。