「アイゴ、オニシさんでないの?変わってないですね」。特徴のある早口の釜山弁で語りかけて来た妙齢のご婦人は紛れもなくミス・キムじゃありませんか。私が80年代初めに釜山店に駐在した時、事務所の紅一点がミス・キムだった。20数年ぶりの彼女は色白スリム美人は相変わらずだが、2児の母親としての風格がそこはかとなく漂っていた。
釜山時代の4年間、彼女との思い出は少なくない。階段で尻餅をついて尾てい骨骨折で入院したり、日頃仲の悪い男性社員と喧嘩して事務所を飛び出し行方不明で大騒ぎになったり。
釜山で行われた親友、高さんのご子息の結婚式で、他にも懐かしい顔に出会った。玉村さんの奥さんとお嬢さん、それにまだ生まれて間もないお孫さんの3人連れです。玉村さんは高さんと私の共通の友人だったが、以前、釜山の近くの昌原市にある関係会社に勤務されていた時、急な病で現地で亡くなられた。今回、幸せそうな母子連れに出会って、当時の悲しい記憶が鮮やかに甦って来た。
「玉村さんが倒れた!」。高さんから切迫した声で電話があった。高さんは日曜日に単身赴任の玉村さんとハイキングの約束をしていたが、当日、姿を見せない玉村さんのアパートで昏睡状態の彼を発見した。直ぐに救急車で病院に運んだが意識不明の危険な状態。日本からは奥さんとまだ高校生のお嬢さんが飛んで来たが、集中治療室に横たわるご主人を不安そうに見つめるのみ。
それからの高さんは自分の仕事を忘れて獅子奮迅の活躍振りで、ほとんど毎日、病院に通い詰めて病状の確認、見舞い客の世話などに没頭した。ソウルにいた私も何回か足を運んだ。高さんと家族の気持ちが通じたのか、玉村さんは1ヶ月、2ヶ月と頑張り、途中、意識回復の気配も見えたが・・・残念ながら遂に帰らぬ人となった。
モノ言わぬ人となった玉村さんと、涙に暮れる家族を釜山空港から日本にお送りした後で、高さんと二人で焼酎を傾けた。玉村さんの想い出を語るうちに彼は大きな目を涙で一杯にしながら、搾り出すようにつぶやいた。
「家族と一緒に元気で日本に帰って欲しかった。申し訳ない 」
二人は無言で焼酎をあおり続けた。
数年前に高さんから弾んだ声で電話があった。「玉村さんのお嬢さんが今度結婚したよ! 彼は天国でさぞ喜んでいるだろうな」
そして先日、玉村さんが無念の帰国をされた釜山に、奥さんとお嬢さんが可愛い赤ちゃんを連れて元気に現れた。当時、高校生だったお嬢さんの成長振りを見て、大喜びの高さんの目は心なしか潤んでいた。私も目頭が熱くなった。
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83-87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事。04年4月、韓国双日に社名変更。