カムチャッカ半島といえば、ロシア極東の中でも辺境の地で、太古からの自然の面影を未だに留める。土地は広大で日本の1・3倍、人口は約34万である。漁業資源には恵まれているが、インフラの不備などで経済的には未開発地域に属する。不気味といえば、ロシアの原子力潜水艦隊の基地がここにあることだろう。
最高峰のクリュチェフスカヤ山(4750㍍)をはじめ、数多くの活火山が噴煙を上げ、そして湖沼、温泉が多く散在する。それに高山植物の宝庫としても知られている。また、河川をさかのぼる鮭をたらふく食べて、丸々と太った巨大なヒグマが生息するなど、まさに世界の秘境といえる。もちろん、ユネスコの世界自然遺産にも指定されていて、近い将来、外国から観光客がわんさと訪れることが予想される。
突然、カムチャッカの話を冒頭に持ち出したのは、この地で一時、3万人を越す朝鮮人労働者が軍事基地建設や森林伐採といった仕事をしていたからである。こうした事実については一般的にほとんど知られていない。私も最近、韓国の有名な映像作家、鄭秀雄の「失われた50年、カムチャッカの韓人」というドキュメント作品を見て、初めて知り、関心を持ったという訳である。問題の経緯については、私がくどくどと説明するよりも「失われた50年」の日本語字幕の解説を紹介した方が手っ取り早い。
「1945年、第二次世界大戦が終わり朝鮮は日本から解放されたが、すぐにアメリカは38度線の南を、ソ連は北を分断して占領することになった。ところがその直後、ソ連は戦争で失われた自国の労働力の不足を補うために、北朝鮮で大々的な労働者の募集を始めた。こうして3万人以上の朝鮮人労働者がカムチャッカに送られたのである。だが1950年、朝鮮戦争が勃発したために彼らは不運にも故郷に帰れなくなる。その上、カムチャッカが軍事特殊地域であった関係で外部との断絶状態が長年続いた。1990年代になって、やっとテレビ取材が可能になるが、この映像はカムチャッカで50年間も望郷の念にもだえながら生きて来た朝鮮人を初めて記録したものである」
鄭秀雄監督の「失われた50年」の映像はさすがに迫力があった。カムチャッカに住む同胞の生活はおおむね悲惨で、深刻な混血問題を抱え、或いは墓場などを撮った画面に私は強いショックを受けた。3万人もの労働者といえば、決して少ない数字だとは言い難い。
彼らのその後の運命について、私なりに調べた結果を記すと、かなりの人は1960年代に北朝鮮に帰還したが、一部の人はシベリア各地に移住し、残りはカムチャッカにそのまま取り残されたというのが真相のようだ。なお、現在カムチャッカに居住する朝鮮人は約2000人である(高麗人協会という団体があり、会長は李守根(イ・スグン)氏)。こうした事態の責任は一体どこにあるのか?いずれにしても当時のソ連の責任は免れないと私は思っている。
チェ・ソギ 作家。在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『韓国歴史紀行』(影書房)などがある。