金正浩(キム・ジョンホ、?~1864)と伊能忠敬(1745~1818)は、朝鮮と日本においてそれぞれ、これまでになかった精巧な地図を作った人物として記憶されている。しかし、ほぼ同時代を生きたこの二人がたどった人生を見ると、天と地のような差があったことに驚かざるを得ない。この際、両者を比較して、その原因の一端を探ってみようと思う。
まず、伊能忠敬についていえば、今の千葉県の商人出身で、後に数学、測量、西洋暦法などを学び、地球の大きさを測るために地図を作ろうと志した。幸い、江戸幕府に認められ、その手厚い支援のもとに蝦夷地の測量を成功させ、その後十七年という歳月を費やして、遂に、日本で最初の実測地図を作るという偉業を達成する(「大日本沿海輿地全図」)。もちろん、その業績は幕府と世間から高く評価された。伊能忠敬は一言でいって、刻苦精励の末、功成り名遂げた成功者の一人であったといえるだろう。
一方、朝鮮の金正浩の場合は、残念ながらその経歴に不明なところが多い(両班の身分でなかった)。彼は在来の朝鮮地図に満足せず、より正確で有用な地図を作ることを自分の使命と考え、その後二十七年間、背嚢一つで全国を駆けずり回ったといわれる。まず「青丘図(チョングド)」と「大東地誌(テドンチジ)」という人文地理書を作ったが、注目に値するのは、当時、実学者として著名であった友人の崔漢綺(チェ・ハンギ)がこの「青丘図」の内容を高く評価して、序文を寄せている点である。
金正浩は更に、北は白頭山(ペクトゥサン)から南は済州島(チェジュド)に到るまでを実地に踏査し、艱難辛苦の末、一八六一年、朝鮮地図の集大成ともいうべき「大東輿地図(テドンヨチド)」を完成させたのである(全長6・6㍍で、ソウル大学の奎章閣に所蔵)。彼には伝説が多く伝わっていて、北朝鮮の「朝鮮地図物語・金正浩の生涯」という映画でも、放浪詩人金サッカとの出会いを劇的に描いているが、これはもちろんフィクションである。
金正浩は早速、この「大東輿地図」を国に役立ててもらいたい一心で、ときの最高権力者である大院君(テウォングン)に献呈する。ところが地図を作った功績を評価するどころか、逆に「国の機密を外部に漏洩する危険な行為をした」として逮捕し、しまいには獄死させてしまう。何と理不尽で痛ましいことであろうか。生まれた国が違うだけでこうも明暗が分かれるのかと思うと、私はやり切れない想いに襲われるのである。
当時日本は、同じ鎖国をしていても長崎の出島を通じて積極的に蘭学を取り入れ、「解体新書」一つ見ても分かるように開明的な機運が横溢していたのがとても羨ましい。これに反して李朝末期の朝鮮の為政者は、頑迷固陋な儒教一辺倒で世界の情勢にうとく、また、科学技術を軽視すること甚だしく、結果的に近代化に遅れをとり、やがて日本に国まで奪われてしまう。
チェ・ソギ 作家。在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『韓国歴史紀行』(影書房)などがある。