今話題の映画『おくりびと』を鑑賞した。私は文化人類学の研究から『韓国の祖先崇拝』(お茶の水書房)を日本と韓国に上梓したりしており、やはり見ないと気がすまない。世に評価された作品だというより私自らその作品の価値を発見して評価したい。まずこの映画を鑑賞して、意外に短く感じた。それだけでも成功したと思える。
私は今まで韓国、台湾、ロシアなどで数多く葬式やお通やそして埋葬などを見てきた。日本では妻の父母が亡くなり秋田での納棺や葬式を体験し、参与観察したことがある。滝田洋二郎監督の『おくりびと』を見て、伊丹十三監督、1984年作『お葬式』を思い出す。初めてお葬式を出すことになった一家をめぐる父や母など肉親への想い、夫婦の愛、子への愛、親族関係や友人・職場関係、などが描かれている。その体験や観察はあくまでも死は他人ごととしてとらえていた。『お葬式』はその葬式の概論的なものであるとするならば『おくりびと』はそのような総論を踏まえた各論的なもののように思われる。
『おくりびと』ではオーケストラのチェロ演奏者から納棺師へ変身していく姿を描く。納棺師というあまり知られていない職業から死を見つめた作品である。小林大悟(本木雅弘)は、所属の楽団の解散をうけて演奏家をあきらめ、妻と共に故郷の山形に戻る。「年齢不問高給保証、実質労働時間わずか。旅のお手伝い」という社員募集に旅行代理店だと思った大悟は応募し早速面接、面接官の会社社長は彼を見るなり採用を決める。そして彼は「納棺師」となる。
この映画から職業観と死生観が伺える。人は無職状態、つまり無重力な状況においては重大な決心が軽く決められる。それがその人の生き方を決めることもある。それにいかに挑戦し、あるいは順応しながら生きるかが人生そのものであろう。大悟自身の決心にもかかわらず妻や周りがなかなか変ってくれない。伝統的に死と出産は黒不浄・赤不浄といわれ、特に死は強い「死穢(しえ)」といい、近い親族以外に触れることがない。それを公開にしたものである。死に携わる職業者は社会的に差別されてきた。この映画はその社会的な、あるいは普遍的な人間の偏見的通念に挑戦している。しかし社会運動ではなく、死を丁寧に扱い、生と愛を反映している。
科学的かつ合理的な発想の流れには「死」は終わり、死体は「物」という傾向が強い。残虐な殺人と死体解体が頻繁に起こるこの世では死体はゴミ化する。私は韓国と比べて日本の葬式をみて死者、死体を粗末に扱うのではないか、つまり人間についてもそのような偏見のような視点を持っていた。そこにこの映画は死体を「遺体」として尊重し、葬儀場の職員は「あの世へ行く門である」と死後を語る。遺族が火をつける時泣き崩れる。現代人は死をどう受け止め、どう向き合うべきか、人間性回復へのメッセージは大きい。
チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。慶南大学校講師、啓明大学校教授、中部大学教授、広島大学教授を経て現在は東亜大学教授・広島大学名誉教授。