春を待ちわびる心、人それぞれに抱く感慨があろう。青春時代の境涯の切なさとほろ苦さ。故郷の恋しさを忍びながら待ち焦がれた桜は、私を生かし、育み、癒してくれた存在であった。
韓国で大ヒットしたイ・ビョンホン主演のテレビドラマ『アイリス』のロケ現場で有名になった北東北の秋田県仙北市は生誕まもなく移り住み、20歳まで過ごした懐かしい故郷である。みちのくの小京都と言われる仙北市角館地区には黒板塀に囲まれた武家屋敷通りがあり、その重厚な屋敷構えは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
江戸時代(400年前)から継ぎ守られてきた森林公園の様な巨木の木立が連なる町並みは見事なものである。特に有名なのは国指定の天然記念物である樹齢約350年の枝垂桜群である。京都の公家の姫が持って来た3本の苗が始まりという由緒ある景観は、歴史を今に語りかける神仙ともいえる存在である。
そして20歳以降、今も過ごしている私のもう一つの故郷である山梨県北杜市には、つい最近まで北巨摩郡と表記されていた。高句麗人や百済渡来人が住んでいたという朝鮮半島ゆかりの地である。
八ケ岳連峰を前面に、南アルプス連峰を背景に望む田園地帯、韮崎市神山町北宮地には樹齢約300年のエドヒガンザクラが在り、「王仁(ワニ)塚の桜」として愛されている史跡がある。その地区は「武田ノ庄」と言われ、甲斐武田氏発祥の地である。そこには武田八幡宮がある。その氏神の祭神は神功皇后、応神天皇である事から新羅や百済との繰りを偲ぶ事が出来る。王仁塚の桜は父母の故郷、全羅南道霊岩(ヨンアム)の先賢、王仁博士の子孫の歴史を語りかける由緒ある神仙である。
2007年11月、私は韓国・朝鮮大学校の発展を祈念し、第13代全浩涼総長の就任を祝うため、角館枝垂桜25本を朝鮮大学校に寄贈した。朝鮮大学校は学徒在日二世河正雄に対する温かい心情を示してくれた。私はその報恩の想いを角館枝垂桜に託す事にした。
今年3月春冷えの中、朝鮮大学校キャンパスの中に仮植されている苗木を確認した。苗木の樹膚は紅色に輝いて生気に満ち、ほんのりとピンクの蕾を膨らませていた。寒風の中で花芽が一輪咲いているのを見つけた。朝鮮大学校を新しい故郷として根付き花咲かせてくれたのだと思うと、愛おしさから瞼が熟くなった。
私が桜に想いを託するのは昔に生きた人の生き方や考え方、思いや教えを人間共通の記憶として次の時代へのメッセージとしたいからだ。桜は人生の深さ、広さを知っている。桜は歴史の激動と無常を見つめている。桜は故郷の懐かしさを包容し、我々を包んでくれる。桜は人間の喜びと幸せを守ってくれている。
朝鮮大学校に植えられた角館の枝垂桜はどの様な理由で植えられたのか後世の学徒は、その想いを語り継いでくれるだろうか。そして喜んでくれるだろうか。
ハ・ジョンウン 1939年東大阪生まれ。韓国・朝鮮大学校美術学名誉博士・客員教授・光州市立美術館名誉会長・在日韓国人文化芸術協会前会長、ソウル特別市および光州広域市名誉市民など。