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2010/07/23

<随筆>◇母音の練習◇  康 玲子さん

 一九七〇年代半ばに京都の大学に入学した私は、下宿生活を始め、環境も一変して、あらゆることに張り切っていた。中でもうれしかったのは、韓国語の勉強ができる、ということだった。このとき、ようやく念願かなって、本格的に学習し始めることになったのだ。

 大学には朝文研(朝鮮文化研究会)や韓文研(韓国文化研究会)があった。私は最初のうち朝文研の学習会にも顔を出していたが、その後韓文研に入って、そこで先輩から韓国語を教えてもらった。少人数の、手作りの学習会だった。

 当時はまだ、韓国語/朝鮮語の学習書は少なく、NHKラジオやテレビの講座もなかった。だから、学習会にもテキストらしいものはなく、先輩がそのたびにプリントを刷ってきて配ってくれるという具合だった。そんなふうにして、今日は基本母音、今日は二重母音、また基本子音、激音や濃音、そしてパッチム…と学習を進めていったのである。

 そんな毎回の勉強を私がどんなにうれしく思っていたか、─たとえば、母音について教えてもらうと、とにかくこの一回で完璧に覚えようと、それを何度も復習した。私の下宿にはいろいろな掃除当番があったのだが、廊下の掃除をするときには、雑巾掛けをしながら「ア、ヤ、オ、ヨ・・・・」と声に出して、それも習ったとおりに唇をしっかり動かすことに気をつけながら練習したものだ。口を大きくあけたり、しっかりつぼめて突き出したり、横にこれ以上はないほどひっぱったり。

 母音の練習だけなのだから、それは単純で簡単なことだったのだが、何度かくりかえすと口の周囲がだるくなるので驚いた。なるほど、普段日本語をしゃべっていて、「アイウエオ」を、これほどしっかり気をつけて発音してはいない。でも「ア、ヤ、オ、ヨ・・・・」の場合、しっかり唇を緊張させないと、たとえば二種類ある「オ」と「オ」や「ウ」と「ウ」を区別できない。そうして気をつけて発音していると、口の周りの日頃使わない筋肉を使っていたわけだ。

 もちろん、そこまで気をつけて発音していたのは最初のうちだけで、そのうちそんなに緊張することもなく発音するようになったけれど、それにしても母音の発音のコツは、やはり「ア、ヤ、オ、ヨ」のあとの「オ、ヨ、ウ、ユ」だけはしっかり口をつぼめて前に突き出す(それ以外は気を抜いて発音しても大丈夫だけれど)、ということに尽きるのではないだろうか。

 そういえば、祖母は話すとき時々口笛でも吹くかのように口を前にとがらせていた。それは私達が日本語を話すときにはしないことなので、なんだか印象に残っている。あれはこの「オ、ヨ、ウ、ユ」だったのだろう。この発音を、だから私も大切にしよう。祖母のような顔を私も作っていこう。祖母を近くに感じながら。


  カン・ヨンジャ 1956年大阪生まれ。在日2.5世。京都大学大学院文学研究科東洋史学専攻、修士課程修了・博士課程学修退学。小学校非常勤講師。京都市人権文化推進懇話会委員。メアリ会(京都・在日朝鮮人保護者有志の会)代表。著書に『私には浅田先生がいた』(三一書房、在日女性文芸協会主催第1回「賞・地に舟をこげ」受賞作)