ハングルの子音は、学習の初めはやさしく感じる。ハングルの五十音図にあたる反切本文を端っこだけ読むと「カ、ナ、タ、ラ、マ、パ、サ 」。基本の子音は、日本語にも同じ音があるからだ。英語のように下唇をかんだり、舌を上下の歯で挟んだり、また中国語のように、舌を口蓋にすりつけたり そんな慣れないことはしなくてもよい。ところが、激音と濃音が出てくるととたんに様子が変わってくる。激音は音を出しながら息をいっぱい出す?また、濃音は音を出しながらも息を出さない?つまり、有気音と無気音の区別ということなのだが、日本語話者にとってはなかなか難しい。私達は普段、音の量と息の量を別々のものとは意識していないからだ。
学生時代の私は、ティッシュを口の前にあてて練習した。激音は発生したときにそのティッシュが揺れ動かなければならない。濃音は逆で、大きな声を出してもティッシュが動いてはいけないのだ。「激音を発音するときはね、『口角沫(あわ)を飛ばす』という感じで、唾を飛ばすくらいの勢いじゃないといけないよ」と言う先輩がいた。そういえば父が、「けんかをしたときには激しい調子で唾も飛ぶ、そんな言葉だ。」と言っていたことも思い出す。この「激音」というものがあるからなのかなぁ、などと考えた。
しかし、まもなく私はそんな偏見(?)に満ちたイメージとは全く違う激音を聞くことができた。70年代当時、京都で韓国系のキリスト教会に通っていた私は、ソウルから来た十代の姉妹と知り合い、カタコトの会話につきあってもらう機会を得たのだ。彼女達の話すソウルマル(ソウル言葉)は、とにかく美しかった。当時の私に、どこがどう美しいと説明することはできなかったが、とにかく聞いていて心地よい。抑揚が、リズムが、音の流れが、すべてが平板ではなく、蝶がひらひらと舞うように、星がきらきらと瞬くように、耳にやさしく触れてくるのだ。時々息がぱっと漏れ出るように聞こえたのは、あれこそ激音だったのだろう。それは立体的な音の連なりにさらに装飾をほどこすかのような、心憎いアクセントのように感じられた。
「美しい言葉」とは、主観的なものだから、そう思えたのは、子ども時代のコンプレックスを脱して、同胞学生の集まりの中で自己を再構築しようとしていた、そんな当時の私の思い入れのゆえでもあったのだろう。とにかくこの時、いつか私もあんなふうにしゃべれるようになりたいと、心からそう願うことができた。
さて前回、母音の要素は天(・)地(―)人(―)の三つと書きましたが、天(・)地(|)人(―)の間違いでした。謹んでおわびし、訂正いたします。原稿を横書きで作成して、縦書きに直したときの記号をチェックしていなかったためのミスでした。そういえば、縦書きにも横書きにもできるというのは、韓国語と日本語に共通した優れた点ですよね。
カン・ヨンジャ 1956年大阪生まれ。在日2.5世。高校非常勤講師。著書に『私には浅田先生がいた』(三一書房、在日女性文芸協会主催第1回「賞・地に舟をこげ」受賞作)。